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因幡西国三十三観音
<<参考情報>>reference
・1858年(安政5年)に再興。
・鳥取市を中心とし近隣に分布。
・ちらほらと案内板が設置されている。
・鳥取市の観音院からスタート。
序盤は鳥取市の北東に位置する岩美町周辺を訪ね歩く。
中盤で市内に戻り、今度は鳥取市南側の山手の方へと札所を打っていく。
後半は鳥取市の西側をめぐり最後は鳥取市に戻り、大雲院にて結願を迎える。
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「初上陸」
やっと念願であった中国地方へ。
観たいところ、行きたいところがいーーっぱい。
想いが先走り気味ですが、
まずは「いなばの白うさぎ」で有名な、鳥取県の因幡地方を訪ねてみることに。
この地方の観音霊場を調べてみると、
古いところでは、江戸中期の「因幡志」に記載されている「因幡観音霊場」と
安政五年(1858)に新たに制定された「因幡西国観音霊場」があるらしい。
今回は後者の「因幡西国観音霊場」を選択。
廃寺が一カ所あるものの、その他は現存しており、
地元で大切にされてきていることが感じられる。
さて、霊場の縁起については、、、、、残念ながら記録が残っていない。
が、調べてみるといろいろと面白いことがわかってくるもの。
古く、7世紀に律令制が始まる時代、この辺りは因幡国と伯耆国があり、
江戸期の鳥取藩ではこの双方を所領とし、32万5千石の大藩のひとつでもあったと。
さてこの鳥取の名称であるが、
飛鳥時代、鳥を取る役目を与えられた人々がこの辺りに住んでいたことから「因幡国鳥取郷」と呼ばれ、
戦国期には城ができ、鳥取城となり、
さらには城下町が形成され、鳥取藩へと発展してきている。
そんな江戸期の鳥取藩。
今回注目すべきは「五水記」なる貴重な資料が残っていること。
後世への教訓として編纂された災害史に関する歴史資料であり
1593 ~ 1795年の約200年間にわたりこの地方に発生した水害史の中から、
大きかった5件の洪水についての詳細な記録を残されている。
逆に考えれば、この地域は頻繁に水害に襲われ、藩政も庶民も苦慮していた証左でもある。
この鳥取平野は千代川の土砂により広がった平地であり、
洪水が発生すればその被害エリアは広範囲に及ぶ。
恵みも多いものの、リスクもまた高いのである。
話を戻そう。
初めに開創された「因幡観音霊場」はこの「五水記」がまとめられたのとほぼ同時期に成立している。
常日頃から農民は五穀豊穣を願い、神仏に天災の鎮護そして鎮魂、安寧を願うのはどこの土地でも同じである。
この「五水記」が成立するころ、藩政側と庶民側との天災鎮撫への思いが一致し、その気運が高まりと共に
象徴する形としてこの霊場の開創に至ったのではないだろうか。
時は流れ幕末へ。
初代「因幡観音霊場」開創から約60年を経て、新たに「因幡西国観音霊場」が制定されている。
札所の入れ替わりも多いものの、共通の札所も多く、明らかに初代がベースとなり再構築されているように見える。
さて再興された気運とは何か?
日本史的に見れば、時は幕末であり、列強による外圧、安政の大獄、大地震、尊王攘夷等々、激動の史実が出てくる。
しかし鳥取藩では、どれほどの影響があったものであろうか。
この幕末期の鳥取藩主は12代池田慶徳(1837~1877)である。
11代の池田慶栄の実子ではなく、水戸中納言・徳川斉昭の五男五郎麿である。
慶栄は嗣子なく伏見で急死したため、幕命により嘉永三年(1850)に慶徳が家督を相続。従四位上侍従に叙任されている。
なんと、、、異腹の弟である七郎麿は、徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜である。
藩主となった慶徳は、烈公と称されている父徳川斉昭の藩政改革をモデルとしてそれを実践。
この時期に、ペリーが来航、桜田門外の変、日米和親条約締結などが目まぐるしく歴史が動き、
18歳となっていた藩主慶徳は、攘夷の立場から遺憾の意を表明する意見書を幕府に提出。
攘夷論者として中央政界にも参画している。
お膝元、鳥取藩の方はというと、
他藩同様、藩内は尊王派と親幕派が激しく対立。
藩主は前述のように15代将軍の兄であったこともあり、複雑な立場にあったようである。
文久3年(1863年)には本圀寺事件(京都本圀寺で尊王派藩士による親幕派重臣の暗殺事件)が発生。
倒幕の急先鋒である長州藩が禁門の変で朝敵となるや、いち早く距離を置き、
またその後の鳥羽伏見の戦いでは官軍方に付く。
空気を読みながら、立場を変え、明治維新へと突入していく。。。
鳥取藩も、そんな政情不安の時代であったらしい。
庶民は時代を憂い、こぞって神仏祈願に詣でしたに違いない。
願いが大きければ大きい程、より大きな力にすがりたくなるのは人情である。
そんな切なる願いが地元に埋もれていた「因幡観音霊場」を復興する原動力になったのではないだろうか。
※このHPでは「因幡西国観音霊場」を、因幡西国三十三観音霊場として紹介しています。
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