SHINANO33
信濃三十三観音
<<参考情報>>reference
・1703年(寛政年間)に成立との情報。
・長野県の広域に広がっている。
・霊場会あり。
・巡拝は長野県の中央付近の東筑摩郡の法善寺より始まる。千曲市、長野市、須坂市と北上しながら札所をめぐる。その後南下するも、いきなり戻ったり、いきなり北部の飯田市に飛んだりと。さらに安曇野市と思ったら東部の上田市へとハードな移動となる。その後は蓼科の峠を越え諏訪湖へ。最後は長野県西部の小川村で終えることになる。順打ちはとても・とてもハード。
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<<ぷち情報>>petite info
ウィキペディアをみると。
信濃国は江戸時代には途中廃絶も含めて松代藩等大小計19藩が置かれていた、と書かれている。信濃三十三観音霊場は現代の長野県の全域に分散しており、開創1703年の江戸期と云われるものの、いくつもの藩が混在する時代に各藩にまたがる札所がどう形成されたのであろうか?
信濃国は大化改新後の令制国発足により、科野国造の領域の佐久、伊那、高井、埴科、小県、水内、筑摩、更級、諏訪、安曇の十郡を以って成立。鎌倉時代初期には鎌倉幕府の知行国となり、知行権は公卿や有力寺院の手にあるも、鎌倉幕府の介在なしには税の徴収も困難であったようである。戦国時代まで存在した守護職には比企氏や執権北条氏、小笠原氏、諏訪氏、吉良氏、上杉氏、斯波氏、武田氏らがいたらしい。室町末期にかけて下克上の様相を呈し、埴科郡を拠点に北部や東部に勢力を拡大する村上氏、諏訪大社の信仰を背景とする諏訪氏、信濃守護家として幕府と強い繋がりを持つ小笠原氏、木曽谷に割拠する木曾氏らが代表格で、後世よばれる「信濃四大将」が支配している。武田晴信の死後、武田勝頼が上杉景勝と同盟を結び、信濃を統一支配したが、天正10年(1582年)織田信長に敗れて、一時織田傘下になるが、本能寺の変が起き、その後は北信濃四郡は上杉氏、それ以外は徳川氏の領国となった。 両者の対立はのちに徳川家康と豊臣秀吉の対立に転じ、家康が秀吉と和睦。後に臣従することで関東に移封され、信濃は豊臣方の武将の、仙石秀久(佐久)、石川数正(安曇、筑摩)、毛利秀頼(伊那)、日根野高吉(諏訪)が入封し、木曽は秀吉の蔵入地となる。さらに慶長3年(1598年)に北信濃四郡を治めた上杉景勝が越後から会津に移封されると、北信濃には関一政、田丸直昌が入封。が、秀吉の死後、家康は配下の森忠政を入封させた。
結局、調べゆく中では信濃国が広域安定だった時期は信濃守護職が存在していた時代で、もしかするとこの頃には広域札所の下地ができたのかもしれない。歴史に思いを馳せることは実に人生を豊かにしてくれるものである。
今回の口絵の岩井堂は、信濃三十三観音霊場の第三番札所。倒れ掛かっている標柱。石積みの上に老朽化した御堂が郷愁を醸し出している。わたしの大好きな情景のひとつである。
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