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越中一国三十三観音

 

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・天正年間(16世紀末)加賀初代藩主・前田利家の兄である前田安勝公の治世の下、安居寺の宗祐法印の俎上により越中一国の霊場を開創。

・富山県全域に分布

・案内版等は所々で見られる

・南砺市の安居寺よりスタート。越中を西から東に向け、南北の縦の波を打つように進んでいく。最後は黒部市の法福寺で結願となる。特番2ヶ所を含み35ヶ所構成となっている。

 

 

 

 

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 縁起?

「越中一国三十三観音」をググッていくと、以下のような縁起に行き当たる。

。。。天正年間(16世紀末頃)加賀初代藩主・前田利家の兄である前田安勝公は、観世音菩薩に対する信仰が厚い方で、富山の城を守っておられた頃、弥勒山安居寺によく詣でられました。そんな或時、安居寺の宗祐法印に越中一国の霊場を数え上げ35ヶ所の札所を選び、道俗行者を巡礼させ法縁を結ぶ種になるよう示されたと伝えられています。。。。(中略)。。。縁起については、主に寺伝等の伝承に依っていて、史実的配慮はしておりません。。。

 

 

 

何となく気になって史実を追っていくと確かに腑に落ちない点が。

 

越中国は7世紀の律令制発足後、その7世紀末には越中国として成立している。 時代が下り戦国期に入ると、各戦国大名が入乱れ激しい領地争奪合戦の渦に巻き込まれている。 越中が一国として統治されたのは室町時代以降でみると戦国期の天正年間に佐々成政により一時期統治されただけで、それ以降は加賀藩の所領として明治維新までずっと歴史を刻んでいる。

 

天正年間とは将に本能寺の変があった激動期。もうすこし詳しく越中国の状況を見ていくと、

この天正初頭は越後の上杉謙信がこの地にその勢力を張っている。 同じころ織田信長は一乗谷の戦いで朝倉氏を滅ぼし越前国を制圧。そして北陸軍事司令官として猛勝柴田勝家を置き、その与力として佐々成政、前田利家、不破光治らを付けている。

そうこうするうち上杉家では謙信が死去し相続争いが発生。 時に乗じ柴田勝家は佐々成政に越後国を奪取をさせている。

しかしながら時を前後して本能寺の変が勃発。

後継争いのなかで羽柴秀吉~柴田勝家が激突することになる。 賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗れるも越中国の佐々成政は動けず。 その後秀吉に富山城を威圧され屈することになる。 最終的には越中国は召上げられ前田利家へ付与。 加賀百万石の礎となっている。

 

焦点の前田安勝についても調べてみると、

確かに前田利家の兄。 

織田信長の家臣として前田家は長兄の前田利久が継いでいたが実子がなく病弱であったため、信長の命により「槍の又左」とあだ名とされる四男利家に家督を譲ることになる。

その時の三男が前田安勝。 利家は兄安勝を重用するも、越中国を治めたとの記述は見当たらない。

 

他方この時代の安居寺の状況についてであるが、

この天正年間には兵火を受け境内に大きな被害を受けているとの記述が見うけられる。

 

はてさて、これらの状況を鑑みる時、上述の縁起の成立性はどうだろうか?

かなり厳しい感じが。。。

 

 

 

開創の動機、気運として重要なのは、下記2点ではないかと思う。

①その巡礼する地域がまとまりのある状態であること 

②その地域に大きな社会的不安等が発生していること


いろいろと考え、以下の大胆な仮説もあるのではと考えるのである。

開創の時期は室町後期ではなかろうか。 畠山氏が守護大名として越中国を統治していた時代。

北陸地方は浄土真宗・蓮如の布教により劇的に一向衆徒が増え、大きな社会的変化が発生している。

多くの人が従来の宗派を捨て浄土真宗に走っている。

この宗教対立に抗すべく、従来の宗派が結びつきを強める手段として開創されたのではないだろうか?

一人ごちるのである。

 

今回の口絵の千光寺は、越中一国三十三観音霊場の第十二番札所。

砺波市の郊外にあり、でっかい本堂に驚愕。 北陸三十三観音霊場も兼務しています。

 

 

越中一国三十三観音 水彩画 リストA 休日画人の古刹めぐり
越中一国三十三観音 水彩画 リストB 休日画人の古刹めぐり

 

 

 

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越中一国三十三観音 水彩画 リスト 休日画人の古刹めぐり