「もう一つのお伊勢まいり」?
伊勢の地を訪れると所々でこの手の看板を目にする。
「伊勢西国三十三観音」を宣伝する看板なのであるが、なかなかウィットの効いたキャッチである。
さて今回も観音霊場の開創の時期について見ていきたいと思います。
その伊勢西国観音霊場であるが、残念ながらその縁起は現代には伝わっていない、、、が、
小野篁が平安前期に巡拝した記録「伊勢三十三所巡拝記」が残っていると云われている。
この人物、NHKアニメの「おじゃる丸」のモデルとも言われている人物で、生802年~没853年。
嵯峨天皇の御世、平安初期の官僚であり参議まで昇り詰めた秀才。
学者・詩人・歌人としても知られ、遣唐副使にも任命されるほどの人材であったらしい。
ということから推定すると、伊勢西国観音霊場の開創はざっと800年ごろか?
いずれにしてかなり古い話である。
ちなみに日本最古の観音霊場を云われる「西国三十三観音」
参考までにこの縁起を略記すると、
718年徳道上人が62歳の死の間際、閻魔大王からお告げを受け現世に戻される。
あまりに地獄に落ちる衆生が多いことから滅罪のご利益のある三十三ヶ所の観音霊場の巡礼することを弘布するよう託されたのである。 しかしながら徳道上人の尽力およばず、あまり普及せず機が熟すのを待つこととなる。
そして約270年後、花山法皇が那智山で参籠していた折、熊野権現が姿を現し観音霊場の巡礼を再興するように託宣。
それが現在の「西国三十三観音」に云々と。。。
この西国観音霊場の縁起に沿って考えると、
伊勢西国観音霊場は、西国観音霊場の認知度さえも低く、普及もままならない低迷期に開創されたことになるのだが。。。
どうもうまく嚙み合わないように感じる。
もう少し時代背景を考慮する必要がありそうである。
歴史で習う有名なフレーズ、「泣くよ(794年)坊さん平安京」
気付けば、伊勢西国観音霊場の開創はそんな遷都の時期に位置している。
奈良時代後期。いまだ都が平城京にあった時代。
後世に「南都六宗」と呼ばれる、東大寺を中心とした奈良仏教が隆盛を極めている。
その絶大な権力は政治への影響力も大きく、大和朝廷としては大きな脅威のひとつとなっている。
当代の桓武天皇はそんな状況も鑑み、遷都を決意するのであるが。
ちなみに天台宗・真言宗の祖は
最澄(生766年-没 822年)
空海(生774年-入寂 835年)
すでに気づかれたであろうが、この時代、天台宗・真言宗は新興宗教であり、まだ産声をあげたばかりである。
旧来の奈良仏教は上座部仏教(小乗仏教)であり、衆生救済というよりは、学僧が経典の教理研究をおこなうことが中心であったようである。 多くの学僧が最新の仏典を熱望し、命がけで唐に渡り、多くの教理を日本に伝えている。
もちろん天台宗・真言宗もその例外ではない。
翻って考えてみれば、一般民衆は置いてけぼり。 皮肉にも徳道上人がエンマさまに現世に追い返されたのも何とも頷ける話である。
他方、地政的見地からすると
「西国三十三観音」と「伊勢西国三十三観音」は鈴鹿山脈をもってキレイに分かれており、うまく隣接する形になっている。
一般的に複数の霊場がある場合、開創の時代の差や権威的な差異により、一部の寺院が重複したり、入り組んだりするような形になるのが普通である。
そういう点では西国観音霊場と伊勢西国観音霊場は対等のような位置づけにも見える。
ちょっと脱線するが、「西国三十三観音」に伊勢神宮のある地が含まれないのも何とも不可思議でもある。
朝廷の権威を象徴する場所であるのに。
そういう意味では、伊勢西国観音霊場はその伊勢の地を押さえ巡礼の順路に組まれている。
話題を戻そう。
先にも述べたように、「西国三十三観音」でさえ知名度の低く、低迷していたと云われる時期である。
にもかかわらず「西国三十三観音」と「伊勢西国三十三観音」が一対のようなキレイな形態をみせているのは、
「西国三十三観音」開創に携わった人物あるいはその弟子等々ノウハウを有する人材が、西国観音霊場の開創からそう遠くない時期に「伊勢西国三十三観音」を構築したことにより成立できたのではないだろうか。
そういう観点から考えると、都が未だ奈良平城京にあるうちに、青写真ができ、霊場が開創されていたのかもしれない。。。
はてさて、現実は?
by 休日画人