福島市周辺は激戦区。
信達坂東三十三観音、信夫新西国三十三観音、そして今回の信達西国三十三観音が集まりひしめき合っている。信達西国三十三観音が開創される17世紀ごろの時代背景を調べてみよう。
現在の福島市のある土地は古くは信夫郡・伊達郡のあったエリア。合わせて信達とも呼ばれている。この地は天正19年(1591年)まで伊達氏の領地だったらしい。豊臣秀吉により召し上げられて蒲生氏郷に支配が移るものの、秀吉の死後、上杉景勝が会津120万石→米沢藩30万石(出羽置賜、陸奥伊達、信夫2郡)に減封されこのエリアを所領することになる。江戸期に入り、寛文4年(1664年)に領主上杉綱勝が子供の無いまま急死。保科正之の尽力により半地15万石で家名存続するも、福島城を含む信夫郡・伊達郡は幕府直轄領となる。
1679年(延宝7年)に本多忠国が福島15万石で入封し福島藩を立藩するが、3年後の1682年(慶長3年)には再び幕府領となる。 1686年(貞享3年)から1700年(元禄13年)にかけて堀田氏10万石で入封するがその後再び幕府領に。 1702年(元禄15年)には板倉氏3万石が領主となり江戸期末まで12代続いていくことになる。
信達西国三十三観音の開創は1690年といわれ、目まぐるしく領主が交代している時期と重なっていることがわかる。政情が安定し庶民文化が熟成する時代に霊場が開創される事例は多いが、この信達西国の場合はどうもすこし状況が違うようである。
今回の口絵の天王寺観音は、信達西国三十三観音霊場の第十一番札所。石橋を渡った参道の両脇に、でっかい観音さまとちっちゃな御堂が。そして階段の上に本堂とおぼしき堂宇が佇んでいる。そんな情景を切り取って描いている。
by 休日画人