「老中の藩」とは。
現在の埼玉県行田市本丸には昔の忍城の一部が復元されている。この忍城は室町期には上杉氏と後北条氏の係争地として重要な拠点のひとつとなっていたようである。戦国期に秀吉により北条氏が滅亡。関東に入った家康は四男の松平忠吉を忍城に入れ、城下町の整備、治水工事開発を行っている。関ヶ原の戦いで忠吉は加増移封され天領となるも、1633年「知恵伊豆」こと松平信綱が入城。信綱が老中として島原の乱鎮圧など辣腕をふるった後は「老中の藩」として政治的・軍事的にも幕府の重要拠点とみなされるようになっていったようである。信綱と同じく家光の代に小姓から老中にまで昇進した阿部忠秋がその後入城し、代々相次いで老中職に就任している。このような時代に忍領内に形作られた霊場のひとつが今回の忍領西国三十三観音霊場であり、西国三十三観音の写し霊場となっています。同時期には忍三十四観音霊場も作られています。
今回の口絵の真観寺は、忍領西国三十三観音霊場の第一番札所。この重厚かつ壮麗な楼門。お隣には鐘楼。そして山門の先には立派な本堂が鎮座しており、みごとな建築美を奏でています。
by 休日画人