大洪水?
美濃西国三十三観音霊場開の開創についての記録は伝わっていない。
とはいえ、享保年間(1716~1736年)に伊自良の黄梅院恵応、美江寺の山本歌仲、岩崎の神谷長治らが「美濃西国巡礼手引記」を記し、当時の様子を書き残していると云われている。。。
美濃国は律令制の創成期から重要な位置を占めており、壬申の乱では大海人皇子がこの地から蜂起し、後に天武天皇として日本を統治することは日本史でも習うところである。
この地は、木曽川、長良川、揖斐川の三河川が貫流し、大きく、青野、賀茂野、各務野の三つの野から成ることから三野(みの)と称されたとも言われ、現在の「美濃」という用字が使われるようになったのは8世紀初頭らしい。
ちなみに美濃国とは大まかにいえば現在の岐阜県から飛騨地方を外したエリアがほぼその領域となる。
さて江戸期の美濃国であるが、天下分け目の大戦のあった関ケ原が近いこともあり、美濃国に有力な大名が出現しないよう、幕府は10万石未満の小藩多数と幕府直轄領に細分化している。
結果、美濃国の約3割は幕府直轄領となり美濃郡代が置かれることに。
また南に隣接する尾張には御三家筆頭である尾張徳川家が配置され、常にこの地域に睨みを利かせられる体制となっている。
三つの河川が貫流していることから水害の多発地域でもあり、
江戸時代初期は、尾張藩側には堤防設置が許されたものの美濃国側にはそれが許されず、常に氾濫地域となり、輪中と呼ばれる村ごとに堤防を作る独特の文化が発達することになる。
さてそのような細分化されたような地域に観音霊場が開創されるであろうか?
もうすこし江戸期から時代を遡っていくと、
美濃国の統治は大まかに、織田信長→斎藤道三→長井長弘→土岐氏と変わっていく。
この土岐氏は、守護大名として室町時代から戦国時代にかけての約200年にわたり美濃国を統治している。
この政治の安定は文化成熟には欠かせない要素のひとつである。
そんな美濃国であるが、1535年に長良川決壊により2万人余におよぶ大惨事が発生している。
現在の岐阜市長良公園にあった枝広館が使えなくなり、政治機能は山県市にある大桑城に移動。
この大桑城であるが、今回の美濃西国三十三観音霊場のほぼ中央近くに位置しているのは偶然か?
またこの大桑城をもうすこし西に行くと、最古の観音霊場である西国三十三観音霊場の結願所、華厳寺が建っている。
ここまで遡ってみると、何となくひとつのイメージが膨らんでくる。
唯我独尊の推論は以下である。
もともとこの美濃国は京都に近く、容易に京文化を取り込み、その文化に触れる環境下にあった。
日本最古の観音霊場の結願所もこの美濃の地にあり、古くから観音信仰の根付いた土地柄であったことは間違いない。
室町時代、1535年に長良川決壊により2万人余におよぶ大惨事が発生。
政治機能も大桑城へ移さざるを得ない環境下となり、幾年もかけて復旧復興が必要となったことであろう。
多くの犠牲者のための鎮魂供養、そして人知の及ばない天災に対する救済祈願。
たぶんこのような気運の中、美濃西国の観音霊場が開創されたのではなかろうか。
続く戦国期にあっては一時廃れるも、
江戸期当初は分割統治されたとはいえ、元禄期に入り上方文化の隆盛とともに観音霊場をめぐる文化も再浮上。
他方、五街道も整備され、各地で宿場町も発達。伊勢参りに代表されるような庶民の旅ブームが到来する。
前述の「美濃西国巡礼手引記」はこういった文化隆盛期に書き記されたものだったのではないだろうか。
何となく一本のひもがつながったようにも思える。。。
閑話休題。
今回の口絵の日龍峰寺は、美濃西国三十三観音霊場の第一番札所。
石積みの土台そして懸造りの足組の構造美は、時を忘れて見惚れるほどに美しい。
by 休日画人