なぜこの地に百観音霊場が?
この地には芳賀西国三十三、芳賀坂東三十三、そして芳賀秩父三十四観音霊場と合わせて百観音霊場があったとか。残されている資料は少なく、霊場としての衰退も激しい。さらには同じ番号の重複する札所も多数あり、巡拝は難儀を極めること必定である。現在の芳賀郡は芳賀町、茂木町、市貝町、益子町で構成されているが、明治初期にはこれに真岡市と宇都宮市の一部(鬼怒川以東)が含まれたエリアが芳賀郡と呼ばれていたらしい。そしてその代官所は真岡に。真岡市の発足は1954年と新しいことから、かなり広いエリアが芳賀郡として郡政が敷かれていた時代があったものと思われる。なぜこの地に百観音霊場が成立したのか?今回の調査では残念ながら手掛かりになる情報に出会うことはできなかった。
今回の口絵の安楽寺は、芳賀坂東三十三観音の第十七番札所。本堂の背後の高台にその観音堂が鎮座している。絵は本堂をわざと陰影のみで仕上げ、観音堂周辺のみ着色。ここに焦点を当てた細工を施している。
by 休日画人