谷地はベニバナの町だった。
学生時代に習った丸覚え知識のひとつ「ベニバナ」。齢を数え、ちょっとその深層を考えてみると実に様々な疑問と向き合うことになる。
さてさて、咲き誇るベニバナは赤ではなくオレンジ色の花をつけている。染料化していく過程の中で鮮やかな赤を発色するようになり、着物の染色、特に神事装束や絵の具、口紅の原料などとして、多くのものに活用されていたらしい。その価値は当時「馬一駄で米が百俵買える」「米の百倍、 金の十倍」と謳われたほど実に高価なものであったとか。ベニバナは元々エジプト地中海沿岸の植物で、シルクロードを経て、飛鳥時代には日本に渡来。最上川流域で栽培されるようになったのは室町末期と云われている。この谷地やその周辺では最盛期には全国生産量の約4割を産し、特に高品質であったことから珍重されていたとの情報もある。交通機関の発達していなかった時代には、最上川の舟運を使って酒田へ。さらには北前船を使って上方へと運ばれていた。帰り船には上方文化の品々や地方地方の珍しいものが運ばれ、内地にもかかわらず谷地の郷は大いに潤っていたことは想像に固くない。
治世の変遷を調べてみると、南北朝時代には中条氏によって築かれた谷地城があったらしい。中条氏の後、戦国期には白鳥長久氏が継承。城を大改修するのはもちろんのこと、同時に、農業や諸工業生産を保護・奨励し、城下に鋳物師や刀鍛冶、大工などの職人を住まわせている。また家臣を城下に住まわせ彼らの食料や生活必需品を賄うための市として、毎月二と六の日、月に六回の市を開設し、商いの興行にも大いに注力している。この谷地の繁栄の素地はこの頃に作られたようである。しかしながら治世の方はその後は目まぐるしく変化し、前述の白鳥長久氏は最上氏の計略により暗殺され、またその最上家も最上騒動を理由に幕府により改易。江戸後期にはこの地は幕領となっている。
この谷地三十四観音霊場の開創は江戸後期である1815年。まさにベニバナの最盛期を迎える頃であったろうか。開創当時の札所名には多くの寺院が名を連ねていたようであるが、近代化の中で衰退。昭和に再興されるも、多くの札所が堂宇で構成される様に変遷してきている。
今回の口絵の誓願寺は、谷地三十四観音の第七番札所。本堂へのアプローチの舗装が赤茶色なのには驚かされる。この地域では処々で見受けられるが埋設されている消雪装置によるものなのだが、雪無県から来た人たちには驚きの風景である。
by 休日画人