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伊賀準西国三十三観音
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・1682年(天和2年)に開創。1915年(大正4年)に復興される。
・名張市&伊賀市に分布。
・石碑が各所に設置されている。
・名張市の延寿院からスタート。 ここは霊場の南端に位置し、北上をしながら番外8箇所を含めた計41箇所の札所を巡っていくことになる。 割と密集しているため順打ちにこだわっても大丈夫。 三十三番の新大仏寺は伊賀市富永にて結願を迎える。
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「準」の真意とは?
旅に出かける度に気づかされることだが、現地に立って初めて気づくことは実に多いものである。
今回の旅の舞台は伊賀準西国三十三観音霊場である。
現地を訪れ、早速、「伊賀準西国」の石碑だけでなく「伊賀四国」の石碑も多くの場所に置かれており、
ふたつの霊場が混在していることに気づかされる。
歴史的変遷をネット情報から拾ってみると
1682年(天和2年) 伊賀三十三観音霊場が伊賀上野の商家の檀那衆の発願により開創
1856年(安政3年) 栄祥法印により伊賀三十三が再興
1863年(文久3年) 伊賀四国八十八霊場が伊賀四郡に位置する真言宗寺院をもって開創
1915年(大正4年) 伊賀準西国三十三観音霊場が復興
歴史的に見れば、
まずは伊賀三十三観音霊場がこの地に開創されている。
江戸の元禄期(1680〜1709年)と云われていることから、まさに上方を中心に庶民文化が花開いた時期。
同時に観音霊場が爆発的に全国的に広がり、ブームの巻き起こった時期でもある。
伊賀の地もご多分に漏れず、庶民(檀那衆)の発願により始まっているらしい。
この観音霊場はその後衰退するものの、
江戸の幕末に政情が不安定となり、日本中が多いに混迷を極めた時期に再興をされている。
その後、世が変遷し、大正の時代になって再び復興されている。
ここでちょっと気になるのは、
現在の名称、伊賀準西国三十三観音霊場には「準」の文字が入っていることである。
単に、以前の伊賀三十三観音霊場に敬意を払って、「準」を付けたのだろうと安易に思っていたのだが。
よくよく考えてみるとちょっとおかしい。
もしそうであるならば、「準伊賀三十三」とするのではないだろうか?
あれれ?
「準」の文字を漢和辞典でもう一度調べてみると
①みずもり。水平をはかる器具。「準縄」
②めやす。のり。法則。「準則」「標準」
③なぞらえる。よりどころにする。「準拠」「準用」
④そなえる。「準備」
⑤そのものに次ぐ位。「準急」
⑥はなすじ。はなばしら。「隆準(リュウセツ)」
当初は、⑤の意味と捉えていたのだが、③の意図を含んで使われていたとしたらどうなのであろうか?
すなわち「準西国」とは、
西国三十三観音霊場をよりどころとし、それをなぞらえたものですよ!
と語っているのではないだろうか。
以前の「伊賀三十三」に敬意を払っているどころか、今回の復興版の方が本筋なんですよ!!と。
自身の正統性を高らかに宣言しているように読め解けなくもない。。。
はたして真意はどうだったのであろうか。
現地を訪れ、さらに気づかされたことは、
伊賀が「松尾芭蕉」の生誕地であったこと。
1644年(寛永21年)に伊賀の地に生まれ、1675年(延宝3年)初頭に江戸へと下っている。
初代、伊賀三十三観音霊場の開創の折にはすでに江戸に移っているが、
野ざらし紀行」によれば、
1684年(貞享元年)41歳の時、門人千里を伴い伊勢神宮に詣で、伊賀に帰郷。
母の墓参をし、大和・吉野・美濃を巡り、翌年江戸に戻っている、とある。
みなさまも観音霊場の各寺院には御詠歌が奉納されていることは知っておられるはず。
もしかして、芭蕉翁も帰郷された折に、この御詠歌に触れたり、口ずさんだりしたのではないだろうか。
歴史に思いを馳せる何とも言えない楽しい時間を享受することができる。
脱線するが
現地を訪れ、さらに気づかされたのは、「三十三銀行」があったこと。
三十三は観音霊場の縁起数であるが、
もしや??と思いつつ当該銀行のHPを観てみる。
「旧三重銀行と旧第三銀行のそれぞれの強みをプラス(+)するという意味から。。。」とある。
とはいうものの、
この三重の地にはたくさんの観音霊場があることをご存じであろうか。
このHPで紹介している、伊勢西国、熊野西国、伊賀準西国をはじめ、
その他にも、桑名、一志郡、芸濃、松阪などなどたくさんの観音霊場が現存しているのである。
「信心深い土地柄」と言っても過言ではないであろう。
「三十三銀行」の名称も、表記にはされていないものの、
この土地に深く根づいた信仰心を勘案し
現在の名称に至っていると推察してもおかしくはないのではないだろうか。
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