<<参考情報>>reference
・18世紀前期の開創を記す石碑が残るとの情報あり。
・茨城県の中南部。
・堂宇の比率が高く、廃寺も一カ所あり。
・道程は筑西市の宮山観音堂からスタート。左手に筑波山を見ながら南下し、つくば市、土浦市、かすみがうら市、稲敷市の札所を訪ね歩いていく。牛久市でUターンし、往路のひとつ西側の道を北上し、下妻市などを経由しながら、桜川市で結願となる。
<<ぷち情報>>petite info
常陸大掾とはなんだあ?
以前紹介の常陸水戸三十三観音の場合と同じく、『常陸西国』名称と巡礼ルートがイマイチしっくりと来ない。なぜか?
巡拝のルートは筑波山の西側から始まり、霞ケ浦の西側を通り牛久へ。そしてここからまた戻っていくルートになる。なぜ常陸西国なのか?もちろん西国の名称は西国三十三観音霊場の写し霊場の意。常陸の名称が腑に落ちない。
常陸国について調べてみると、まず飛鳥時代に百済王遠宝が常陸守に任命されて国府を現在の石岡市におき、府中城(石岡城)があったらしい。この時代は少々地形も変化しており、霞ヶ浦はもっと大きく、利根川も銚子に流れ出るルートではなく、霞ケ浦周辺には広い湿地状の土地が広がっていたと云われています。時代が進み平安後期は平将門の乱にて荒廃。その後乱を沈めた平氏が常陸大掾職としてこの地を統括するようになっていきます。ちなみに一番偉いのは常陸守、二番目が常陸介、三番目が常陸大掾。常陸守は赴任しないため、大掾は実質的な土地の権力者を意味しているとのこと。
鎌倉期に入り、源頼朝から吉田資幹が常陸大掾に任ぜられ、ここから実質的に氏族「大掾氏」が創始。
南北朝時代には大掾詮国が常陸府中城を築いています。中世のこの大掾氏(常陸平氏)の所領が実に今回の巡礼エリアと一致している。。。。。この時代にはこの常陸大掾の所領にすでに巡礼の機運あるいは下地があったのかもしれません。常陸西国の常陸は、常陸大掾と考えるとしっくりと来るようです。その後の大掾氏ですが、豊臣秀吉による小田原征伐に大掾氏一族は参陣しなかったため、参陣した佐竹義重に常陸国が与えられ、激戦の末、府中城は落城。大掾氏自害。これにより大掾本宗家は滅亡に至ったとか。
今回の口絵の立木観音堂は、常陸西国三十三観音霊場の第十番札所。道路の脇にうっそうとした森。その中奥に観音堂が鎮座しています。たいへん華奢なつくりで周りの木々によって何んとか風雪から守られているようです。