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東上州三十三観音


 

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・1708年(宝永五年)崇禅寺住職が創設と云われる。

・群馬県の館林市、太田市、桐生市などの東毛地区に点在。

・ルートのスタートは邑楽郡板倉町の宝積寺。ここから桐生市まで地図上を上下しながら札所を訪ね進んでいく。結願は桐生市の小倉峠観音堂となっている。

 

 

 

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上州とは上野国の別称。東上州三十三観音霊場は群馬県館林市周辺に分布しており、1708年崇禅寺住職が創設と云われています。はてさて、この1700年初頭この東上州の地域はどんな状態だったのであろうか。
小田原征伐後、関東に入部した徳川家康が、徳川四天王の一人・榊原康政に館林10万石を与え、これが館林藩の始まりとなっています。世継ぎがなかったため徳川親藩となったり、直轄地になったりを繰り返し、寛文元年(1661年)徳川綱吉が25万石で館林藩主となります。ただし藩主綱吉は江戸の神田御殿に居住。徳川家綱後第5代将軍となり、館林藩は綱吉の子・徳松が継承。しかしながらわずか4歳で夭折し廃藩。藩領は公儀御料に戻り館林城が破却されています。その後、宝永4年(1707年)徳川綱重の次男・松平清武が入部。第3代藩主・武元の代に享保13年(1728年)に陸奥棚倉藩へ移動。入替わりに若年寄の太田資晴が入部するも大坂城代となったため再び廃藩、云々。 この館林の地はめまぐるしい治世の変化を続けているなか、はてさて東上州三十三観音が成立する頃はどうであったのであろうか?
まさに館林藩が綱吉により25万石として成立し、続いて五代将軍として隆盛していく時代。権勢は現代の館林市の領域にはとどまらず、かなり広範囲な領域に権勢を及んでいたものと思われます。今回の東上州三十三観音のめぐる札所は、当時の館林藩の権勢の及ぶ領域を示しているものなのかもしれません。
今回の口絵の浄光寺は、東上州三十三観音霊場の第十一番札所。門前には畑が広がっており、境内に大きな桜の木が植わっています。左手に観音堂があり、桜が春の彩を添えていました。

 

 

 

東上州三十三観音 水彩画 リストA 休日画人の古刹めぐり
東上州三十三観音 水彩画 リストB 休日画人の古刹めぐり

 

 

 

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