<<参考情報>>reference
・1725年(享保十年)雄弁上人により開創と伝わる。
・茨城県南部エリアの旧猿島郡一帯に点在する。全42ヶ所。
・堂宇の比率が高い。
・巳年開帳
・ルートは野田市の福寿院から始まる。前半は北エリアの札所を訪ね、徐々に南下。後半は坂東市を中心にめぐり歩く。旅は坂東市の長谷寺で終えることになる。
<<ぷち情報>>petite info
関宿藩って?
猿島坂東三十三観音の縁起を調べると、1725年(享保10年)に雄弁上人によって創始され、千葉県野田市関宿町、茨城県猿島郡境町、茨城県古河市、茨城県坂東市に点在する、とある。また猿島についても調べてみると、1896年(明治29年)に西葛飾郡と合併して発足。当初の郡役所は境町にあり、郡域は、境町と利根川対岸の五霞町の2町からなる、と。
霊場が成立したと云われる江戸中期にはすでに猿島なる地名になっていたのかと思いきや、猿島郡は明治以降に成立。はてさて、江戸中期、この地域は?と再調査してみると、今度は関宿藩なる名称が出てきた。利根川と江戸川の分岐点で、かつ水運の要衝地であることから、幕府にとっては重要拠点であり、譜代大名がその藩主に任じられている。そして藩主の多くが老中や京都所司代など幕閣の重要なポジションを兼務。江戸年間を通じてこの藩は存続し、中でも久世家からは多くの藩主が輩出されている。
はてさて、なぜ猿島坂東の名称がつけられたのか? 私はこの名称は後世にリネームされたてついたのではないかと推察しています。
と言うのも、この札所は他と異なる特徴があり、番外が数多くあることは当然のこととして、新旧重複の札所やさらには掛所などの設定もあり、実に柔軟に歴史の変遷を札所の中に取り込んで現在に伝えられています。明治の廃藩置県により地域の垣根が低くなり、地域の札所も統廃合されるなかで猿島坂東の名称に整理されてきたのではないだろうか。そう解釈すると、成立期とこの名称、札所構成の特色などが一本の糸で紐づけれる気がするのである。
今回の口絵の福寿院は、猿島坂東三十三観音霊場の第一番札所。本堂の脇に観音堂があり、回向柱が建立されている。