<<参考情報>>reference
・1234年(文暦元年)開創と伝えられる。
・埼玉県秩父地方に広がる。
・午年本開帳。丑年中開帳。霊場会あり。日本百観音霊場のひとつ。
・巡拝は秩父市栃谷の四萬部寺からスタート。まずは南方面の横瀬町方面に駒を進めながら札所を訪ねていく。その後街中へ。たくさんの札所が狭いエリアに集中しており札所の数を短時間で重ねていく。徐々に西方面、山深い方面に移動するも上影森まで。終盤は遠方にある札所を数カ所めぐり、皆野町の水潜寺で結願となる。
<<ぷち情報>>petite info
知知夫国???
埼玉県秩父地方に広がる秩父三十四観音霊場は、西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所とともに、百観音霊場のひとつとして知られています。縁起は諸説あるものの、分暦元年(1234年)三月十八日開創と云われるものが一般的で、江戸庶民文化の隆盛に伴い、秩父観音霊場も栄えてきたものと考えられます。
さて、この秩父地方、令制国の制定以前には、知知夫国(ちちぶのくに)として一国をなしていた時期もあったとか。 708年には秩父産出された銅を朝廷に献上し庸調が免じられかつ年号が和銅になったとの逸話も残っているようです。
古い時代からこの土地はひらけていたのは確かなようで、
中世の武士台頭の時代には、武蔵七党の丹党中村氏がこの地に地盤を張っていたようです。11世紀になると、平将恒が「中村太郎」あるいは「秩父六郎将恒」として称して秩父の氏性を名乗り、秩父市下吉田あたりに館を構えたといわれています。また、秩父市には平将門伝説が残っており、城峯山の桔梗伝説、荒川上田野の若御子神社将門かくれ穴、大滝の大血川伝説等、数多くが語り継がれているとか。これら武士の庇護を受けた社寺の建立も盛んに行われ、秩父観音霊場の成立もこの頃であったといわれているようです。
今回の口絵の法長寺は、秩父三十四観音霊場の第七番札所。大きな本堂の屋根と、唐風が優美な姿を見せている。背景は夕焼けの情景で仕上げている。