三浦三十三観音

三浦三十三観音 水彩画 東福寺 休日画人の古刹めぐり

鍵は源頼朝か?

三浦三十三観音霊場の縁起。HPを拾い読みすると、鎌倉初期に三浦半島一帯に起きた大飢饉に対し、義経家臣の鈴木三郎重家が人々救済を発願し三浦半島の三十三の霊場を巡拝。結果霊験あらたかに、浜は大漁、陸は豊作となり、人々は飢饉から救われた、云々と。
ここで登場する鈴木三郎重家(1156-1189)は、『義経記』によれば義経に従い源平合戦の諸戦で活躍し、衣川館で義経に最期まで従った主従のひとりとして登場し、また『源平盛衰記』にも義経郎党として名が散見される人物である。
この縁起から推測すると、一般の江戸期に全国に広がったような観音霊場とは違い、日本百観音のひとつである坂東三十三観音と比肩するほどの歴史を有する霊場のひとつと云うことができる。ではなぜこの時代にまだ一般的ではなかった観音霊場が成立したのであろうか? 私はこれは源頼朝の影響ではなかったのか、と推測するのである。
『吾妻鏡』によれば、頼朝はきわめて熱心な観音信者であったようである。平家追討の旗揚げの際にも浅草寺(聖観音をご本尊とする)で勝利を祈願。また、その後の奥州の藤原氏征討の際にも頼朝は戦勝を願って浅草寺に土地の寄進をしている。そんな頼朝はすでに西国で成立していた西国三十三観音霊場の影響を強く受け、東国の地にも理想郷を作らんと欲した結果、この鎌倉期に坂東三十三観音が開創されている。武家の棟梁としての絶大な権力、また家臣への影響力は現代に生きる私たちには想像がつかぬほどの並々ならぬものがあったはずであり、その頭領が観音信仰を宗としている。また陸路交通が未成熟であった当時は海運が主力であり海運に適した土地に富が集まる時代であった。このような点を鑑みると三浦半島は富の集積地となり、頼朝の影響力のもと、幕府のお膝元に観音霊場がこの時代に成立したのではないかと推測している。

今回の口絵の東福寺は、三浦三十三観音の第十三番札所。高い階段を上った先のちょっとした開けた土地に本堂がある。そんな本堂の様子をさらに高台より点描している。遠方には海そして湊がみえ、手前の眼下には漁師町の風情が広がっている。

by 休日画人