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備中西国三十三観音
<<参考情報>>reference
・江戸寛政年間に柳井重法により開創
・岡山県西エリアに広く分布
・ところどころに石柱が散見される
・備中エリアの中央・高梁市の深耕寺からスタート。
まずは北上し、西エリアにある新見市を経由しながら南下。
中盤で瀬戸内に出、笠置市周辺の札所をめぐる。
海岸線を東進しながら札所を訪ね歩き、終盤は倉敷市や岡山市のあるエリアで結願を迎える。
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「運命共同体」?
今回の巡拝の地・備中とは、はてさてどこか?
小生のように東国の住む者にとっては、どうもパッとこない。
現代風にいえば岡山県の西エリア。 倉敷市や高梁市などのある地域を指している。
この観音霊場は有難いことに縁起が伝承されてきている。
江戸時代中期(寛政年間)に柳井重法によって開かれた、、、と。
寛政年間とは1789年から1801年までの期間。
将軍としては11代目、徳川家斉の時代。子宝将軍として有名であり、治世は1787-1837年の50年間にも及ぶ。
田沼意次を廃し、松平定信を登用。
賄賂の横行した重商主義の時代から大転換し、寛政の改革といわれる倹約の時代への変革の時である。
焦点となる人物「柳井重法」であるが、ネット検索しても、残念ながら情報が引っかかってこない。
ということで、いつものように備中の歴史や地勢などから深堀をしてみる。
江戸時代、この備中地方は小藩で分割統治されている。
一番大きいのは備中松山藩であったが、それでも5~6万石程度であったようである。
なぜこんな小藩の林立する地域に観音霊場が開創されたのだろうか?
地図、地形をよくよく見ていくと、面白いことに気が付く。
代表的な河川である高梁川、小藩はほとんどがこの高梁川の本流や支流で繋がっている。
米を経済基盤とした江戸時代においては、水の問題は超重要な案件であることに論を待たない。
小藩林立の状態なれど、常に隣藩との連携が必要な状況下であったことは容易に推察される。
河川につきものの、水害の観点について
各市町村のHP等に記載されている災害史を拾い読みすると興味深い史実が出てくる。
真備町の資料によれば、延享年間(1770年頃)より大正時代までの高梁川の洪水を拾ってみると18回を数える、、、、云々。
高梁市の資料によれば、1655年の大洪水では4.5mまで満水。1721年の大洪水では3mの水位。 などなど。
倉敷市の資料によれば、寛政元年(1789年)6月18日,4日前から降り続いていた雨が激しくなり,西高梁川の左右両岸の堤防が決壊する大きな水害が発生、、、(省略)、、と。
まさにこの寛政年間とはこの霊場が開創された時代の記録であり、この高梁川はそれ以外にも幾度となく大きな水害を起こしてきたのである。
小藩は運命共同体のような関係にあったのかもしれない。
上記を総じてみると
備中地方は江戸期は小藩が林立する状況にあったが、各藩は高梁川水系で結ばれており、水系による恩恵も災害も共にする共同体のような状況にあったのである。
高梁川は幾度も洪水をおこす暴れ川であるも、水系に生きる農民たちの暮らしはこの高梁川に直結。
毎日祈る思いで、川の流れを見つめていたに違いない。
時も折、寛政年間に発生した水害。
より力強い神仏の御加護を得たいと願う機運はさらに高まり、流域の祀られている三十三ヶ所の観音様を結ぶ霊場の開創に進展していったのではないだろうか。
そんな備中の暮らしが見えてくる。
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