備後西国三十三観音

備後西国三十三 水彩画 リストA 休日画人の古刹めぐり

「きびだんご」

 

今回の旅の舞台は「備後」である。 現代でいえば広島県の東部エリアに当たる。 

 

ふる~~い時代、日本国は「大和」「筑紫」「出雲」「吉備」の四大王国が覇権を争っていた時代があった、、、と。

古墳時代に入り、ヤマト王権の崇神天皇の命により「吉備」の豪族が征伐され平定される。

「桃太郎伝説」はこの史実が元となっているとも云われ、イヌ、サル、キジがご褒美にもらった「だんご」は、

そう「きびだんご」。。。吉備である。

 

この「吉備国」は689年発布された「飛鳥浄御原令」の中で「備前国」「備中国」「備後国」に分割。

さらに713年には「備前国」の内陸部が「美作国」として分割され、どんどん吉備にあった戦力は小分けにされていくのである。

 

焦点の「備後」であるが、世に名が発布されたのは1300年以上も前のできごと。

国府は現在の広島県府中市の元町あたりにあったことがわかっている。

国守は調べきれなかったが、鎌倉期の初代守護大名は源頼朝の重臣であった土肥実平といわれている。

 

時代はざっと下るが、

江戸期には「備後国」は分割された状態で統治されている。

 

関ヶ原の戦いの前までは毛利家が所領としていたが、戦後の整理の中で福島正則が安芸とあわせ備後両国の領主となる。

しかしながら無許可で広島城を修築したことが原因となり1619年に改易。

安芸と備後北部エリアが浅野長晟に、そして備後南部エリアが譜代大名である水野勝成に下げ渡されることになる。

 

この譜代大名を入封させてことには大きな意味があり、西国の有力な外様大名を抑制し、睨みを効かすためと云われている。

水野氏は長く続かなかったが、その後は徳川御一門が入封、さらにその後は譜代の阿部氏へと幕府側の支配地が続いていく。

 

そんな統治の変遷がある中での「備後西国三十三観音」である。

 

残念ながら縁起の伝承はググっても出てこないようなので、いつものように勝手に想像を膨らまさせていただくことにする。

この札所には名刹といわれる立派な寺院が名を連なれている。

江戸期には外様大名と譜代とが睨みあっていた土地でもある。

そんな統治状況を考えると、双方の領地に跨るような札所をつくるのは至難の業である。

ということは、分割統治される以前に観音霊場の土台ができたと考えるのがより自然と思われる。

 

では逆に明治以降との考えもあるが、

その答えは結願所の三十三番札所にあった。

見劣りするぐらい小さな無住の堂宇となっている。

でもすぐ近くには、備後一と謳われる吉備津神社が鎮座しているのである。

そう、明治の神仏分離により止む無く分割されたそうである。

名刹が札所として名を連ねるのと比肩すれば、結願所としては吉備津神社レベルの格式でなければまったく釣り合わない。

 

ここでは、開創は室町ごろ、としておきたいと思います。

秋の夜長。 歴史に思いを馳せるみるのも一興なり。

 

 

by 休日画人