なぜ「坂東」の名称となったのか?
「坂東」とは現在の関東地方の古称であり、足柄峠,碓氷峠の坂の東を意味している。700年代に記された『常陸国風土記』にも「相模国足柄の坂より東」との記載があるとのこと。他の資料には「坂東」の呼称は奈良期以降使われるようになったものの、鎌倉期以降は「関東」の呼称がより一般化した、との記載も見うけられる。その「関東」の名称であるが、飛鳥時代後期に畿内防御ため築かれた、東海道の鈴鹿関、東山道の不破関、北陸道の愛発関(のちに逢坂関)の三関が置かれたことから、これより東という意味で「関東」という地域名称が生れている。
はてさて坂東三十三観音の縁起については詳細は伝わっていないものの、源頼朝が大きく関わっていることは多くのところに記載されている。源頼朝は熱心な観音信者であり、当時西国に成立していた西国三十三観音と同じような札所文化を関東の地にも実現させたいと思っていたに違いない。そんな頼朝は「東国」「坂東」「関東」の名称のうち、「畿内近国」の西国方に対し東国方としての「関東方」を好んで使用したのようでもある。また当時の書物『吾妻鏡』にも「関西38国、関東28国」という記述があり「関東」の名称が出てくる。建久三年(1192)後白河法皇の四十九日の法要が開かれているが、のちの坂東札所となっている寺から約二十余名が集まって開催されており、この時期あたりが札所文化の起源に近しいのかもしれない。それにしても、なぜ、「坂東」を選択したのか。頼朝が好んで使ったと云われる関東を使わなかったのか? ここが歴史の面白いところである。
私はこう考えている。朝廷に対立・対等となる「西国」に対する「東国」ではなにかと衝突の対象となる。それよりも猛者・武勇を誉とする坂東武者、新たな武家政権の象徴として観音霊場に「坂東」を冠したのではないか。と思うのである。
今回の口絵の杉本寺は、坂東三十三観音霊場の第一番札所。山門から本堂へ上る正面の石段は、幾多の信者が上ったであろうか、現在はすり減っていて通行禁止となっている。う回路を上って本堂へ。寄棟造の本堂が所狭しと鎮座している。茅葺の屋根が長い歴史、情緒を醸し出している。絵はセピア一色で仕上げてみた。
by 休日画人