「御嶽講」?
木曽西国三十三観音霊場に関する資料は実に少ない。
開創は江戸期文政の頃。第28番札所の光徳寺の万元住職により開創された、、、云々と。
江戸期において爆発的に観音霊場が広まった時期、そのひとつとして文化文政時代はよく知られるところである。
木曽は当時の大動脈、中山道の通る土地。
江戸や上方の文化が多くの旅人により運び込まれ、開創された時期も「然もありなん!」と頷けるところでもある。
では何のためにこの土地に観音霊場が開創されたのであろうか?
この地の歴史的英雄は何と言っても「木曽義仲」
とはいえ、この時代を遡ること600年以上の大昔の話。今回の霊場開創の動機としてはピンと来ない。
ざっと調べる中では、このエリアで大きな戦乱や自然災害があったとかいう情報は引っかかってこない。
もうすこし深堀が必要なようだ!
江戸時代、誰が統治していたか? 徳川御三家の尾張藩の名前が出てくる。
木曽谷の良質な森林資源は、現代で言うならば「戦略物質」に位置づけられるものだったのかもしれない。
江戸初期、関ケ原の合戦からの復興需要で豊富な森林資源はどんどん流出。
瞬く間に森林の荒廃が進み、幕府は尾張藩に木曽谷の管理を厳命することになる。
尾張藩はヒノキをはじめとした「木曽五木」の伐採を禁止し、森林を管理。
「木一本、首一つ」と云われる「お留山」に位置づけ、幕末まで厳しい森林管理が行われている。
少し話題がずれるが、
中山道の旅籠代は、総じて東海道よりも2割ほど安かったと云われている。
道程は長いもの、東海道より中山道を選択する旅人が多かったとも云われている。
東海道では橋の建設が制限されていたため、渡河には川越人足に頼らざるを得ない。当然、川止めリスクもあった。
また「入鉄砲出女」等の取締まりも厳しく、かつ箱根峠など交通難所も多々あり、中山道を選ぶ理由となっている。
「奈良井千軒」という言葉も残っているが、
奈良井宿では宿場は約1kmにも及び、常時2000人以上の人たちが働いていたと云われているほどの盛況ぶりであったようである。
今回の話題に関係ありそうなのは「講」の話である。
時代小説などには時折「富士講」「伊勢講」などの話が出てくる。
江戸期の庶民は「一生に一度は、、、」と、富士山や伊勢神宮への参拝を切望する人々が多かった。
「講」というグループを作り、積立や定期的参拝を行い、参拝へ行けない人も代参をお願いするなど、
神仏参拝への想いは現代人の感覚をはるかに超越している。
そう「御嶽講」もあったらしい。
実は御嶽山は日本有数の山岳信仰の山だったのである。
木曽路を歩くと、所々でひょっこりと顔をのぞかせる「御嶽山」の雄姿は何とも言えず手を合わせたくなる。
御嶽山信仰の歴史は平安時代の頃に始まっており、各地から多くの修験者が足を運び、修行を重ねている。
御嶽山の登拝は一握りの修験者にのみに許された荒行であったのであるが、
江戸期に入ると、厳しい修行を重ねた道者といわれる人々が集団で登拝できるように変化している。
ただし「75日間の精進潔斎」を行った者のみ、との厳しい条件があったとか。
その後、1784年に三岳村の黒沢口が開かれ、「軽精進」の者でも登拝可となり、
また1794年には王滝口からの登山道が開かれ、一般庶民に登拝が開かれている。
江戸期文政の頃は将に修験者だけでなく、「御嶽講」を介した一般庶民が木曽を目指しどんどん集まってきていたのである。
そんな当時に思いを馳せイメージを膨らませると。。。
・登拝は体力が勝負。当然リスクも高い。全員が登れたはずはないだろう。。。
・登山口近くの宿場に人が集中。さぞ混んでいただろう。また富が集中し「いざこざ」もあったかも。。。
・登拝できない人にも代替えとなる、、、観音めぐりのようなものが切望されていたのではないだろうか。
・日本各地では観音めぐりが開設され庶民に歓迎されている。
そんな諸々の状況のもと、
打開策のひとつとして、光徳寺住職を中心に観音霊場が開創されたのではないだろうか。
登拝できない人たちも近くの観音様めぐりで現世ご利益を願うことができる。
また宿場で暮らす人々にとっても、富の分散が図られ、ウィンウィンの打開策だったのではないだろうか。
はてさて、実際はどうであったのであろうか?
by 休日画人