能登の諸橋とは?
今回旅した札所は情報量が極めて少なく、検索すると以下のような名称が出てくる。
能登二十一番真言霊場巡り
諸橋当国二十一ヶ所
能登弘法二十一ヶ所霊場
小生のHPでは固有名詞の付いた名称を尊重し、能登諸橋二十一としている。
現在、諸橋という市町村は存在しないが、能登半島の奥の方を見ていくと穴水町のところに諸橋稲荷神社が見える。 すぐ近くを拡大して注視していくと、諸橋郵便局や諸橋派出所などの名称も出てくる。 そうこの地は昔は諸橋と呼ばれていたに間違いなさそうである。
「諸橋」をググルと、「諸橋村が明治期の廃藩置県の中で発足・・・」という情報が出てくる。(昭和期に入り穴水町に編入されてしまうが、、、) さらに古い時代の情報には、「戦国期には諸橋郷があった・・・」云々と。 当時は六郷衆と呼ばれる地元の有力農民によってこの辺の土地が管理されていたらしく、この六郷衆の中には諸橋次郎兵衛なる名前も登場する。 さらにさらに遡ると、鎌倉時代の吾妻鏡には「能登国諸橋保」の名が出てくるらしい。 そう、能登半島に荘園を有していたようなのである。
今回旅したこの地には、諸橋の姓に関連する歴史が長らく息づいていることから考えると、
「能登諸橋二十一」を選択するのもほぼ妥当な線なのかな、と考えている。
この札所の開創についての情報はないが、ルートをみると面白いことに気づく。
先に巡拝した能登国三十三観音と見比べていくと、一番札所を同じくし、能登国三十三の場合は内浦を南下した後、外浦を北上し半島の突端をめざすが、一方この能登諸橋二十一の方は、内浦を北上し半島の突端へと札所を打っていくのである。
要はふたつの札所をひとつにすると、能登半島をグルっと一周する形になるのである。
もし開創の縁起が残っているならば、きっと双方の札所の関係・歴史が語られているに違いないと思うのだが、、、
今回の口絵の霊山寺は、能登諸橋二十一霊場の第二番札所。
石段先の小振りな鐘楼門を潜り、その山門左手より境内を一絵スケッチ。 本堂を中央に前庭を囲むように大きな建物が建立されている。
by 休日画人