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伯耆三十三観音

 

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・1744年(延享元年)、吉持甚右衛門によって開創。

・鳥取県の西側。大山を中心に分布。

・ちらほらと案内板が設置されている。

・西伯郡南部町にある雲光寺からスタート。 

  「の」の字を描くように進み、中段で大山の中腹にある大山寺に詣でる。

  日本海側に下山し米子市へ。 海沿いに西から東へと札所を打っていく。

  終盤は大山の東側の倉吉周辺をめぐり、結願は倉吉市の長谷寺で迎える。

 

 

 

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「名族」

 

今回の旅の舞台である伯耆三十三観音霊場は、簡素ではあるが、その縁起が伝えられている。

 

1744年(延享元年)、吉持甚右衛門が雲光寺に100日間参籠。

満願の早暁、観音様のお告げによって伯耆札所が生まれた、と。

 

いつものように、キーワードを頼りに時代背景を調べてみることにしよう。

1744年は正に江戸中期。

八代将軍、徳川吉宗(1684年〜1751年)の治世である。

享保の改革に代表されるように、この時代、課題は散在するものの

大岡忠相をはじめとした有能なブレーンを擁し、政権的には安定していた時代である。

 

はて、焦点の伯耆国はどうであったであろうか?

先の「因幡西国三十三観音」の項でも述べたように、

江戸期は、鳥取藩が伯耆国と因幡国とのエリアを一括して統治している。

この1744年頃は、4代目鳥取藩々主、池田宗泰(1717年〜1747年)がその任に就いている。

祖父の母方の従兄弟に八代将軍吉宗があたるということもあり、

吉宗の「宗」と、父・吉泰の「康」を賜り、「宗康」として元服。

若き藩主が治世する時代である。

 

さて肝心の吉持甚右衛門であるが、

吉持家は伯耆国地元ではたいへんな豪農というか「名族」であったらしい。

この地を流れている佐野川用水は、吉持家が私財を投げ打ち、吉持家10代243年の歳月をかけてその水路を完成させている。

1631年(寛永8年)五郎左衛門が長者原台地の開拓を鳥取藩に請願した時点から始まり、

日野川の断崖絶壁の岩盤地に取水口を設け、水路を開き、隧道を堀り進め、長者原台地へと水を導いている。

最終的には約五千石もの増収を藩にもたらしているのである。

名族たる所以である。

 

はてさて焦点は甚右衛門である。

用水開拓を推進する一方、大山の大山寺参道に地蔵菩薩の彫像を寄進したりもしている。

これは旅人の安全を祈願、さらには、地域の貴重な家畜の守り神を祀るものであったらしい。

さらには、前述の伯耆三十三観音霊場の開創にも係っていることから

人一倍地元愛が強く、人を思いやる気持ちに篤い、熱血漢だったのかもしれない。

 

ではなぜ吉持甚右衛門は100日間もの参籠をしたのであろうか?

気になる史実が出てくる。

鳥取藩最大の一揆といわれる「元文一揆」が1739年(元文4年)に発生しているのである。

因幡国八東郡から発生し、伯耆国を巻き込み藩全体におよぶ一揆へと膨張。およそ5万人が参加、といわれている。

 

この時代、藩政が対立。藩主に重用された米村派と批判的な物頭派とに分裂している。

そんな最中、1738年(元文4年)に長雨による被害が発生し、農民に飢饉が広がる。

藩政混迷により救済策を講じられず、厳しい取り立ても続けたことから、百姓たちが暴発し一揆へ発展していくのである。

 

人一倍地元愛に燃える甚右衛門にしてみれば、農民の安寧は悲願ともいえよう。

生活苦にあえぎながらも重労働を負わせられる農民たちを少しでも慰撫したい。

そして共にすこしでも前向きな気持ちで生きていきたいと切に願ったに違いない。

 

抜け出せない苦悩の渦の中。藁にもすがる気持ちで100日間の参籠というものに臨んだのではないだろうか。

そして結果として、

「農民の心の拠り所を作る」と大悟した、、、、、、と私は縁起を読み解きたいと思う。

 

現代にまで札所が大切に維持され、またその縁起が言い伝えられてきているという事実は

伯耆三十三観音霊場が、いかに地元の人々の心の拠り所として大きな役割を果たしてきたか、

その証左のひとつと言うことができるのではないだろうか。

 

 

 

 

伯耆三十三観音 水彩画 リストA 休日画人の古刹めぐり
伯耆三十三観音 水彩画 リストB 休日画人の古刹めぐり

 

 

 

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