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仙道三十三観音


 

<<参考情報>>reference

・1716年(正徳六年)の書物に記載があると云われる。

・福島県白河市、棚倉町、郡山市、田村市、二本松市および近隣に点在。

・道程は郡山市の泰平寺からスタート。前段で札所をめぐりながら二本松市まで北上。Uターンしながら南下し田村郡を経て棚倉町そして八溝山山頂の札所まで移動する。終盤はここを南限とし白河市を経、須賀川市の福寿院で結願となる。

 

 

 

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なぜ仙道の名前になったのか。
札所が分布している福島県の中央部には仙道なる郡もなければ、藩も存在していない。関係ある地名が見当たらない。
仙道三十三観音の縁起に関する伝承は残されていないものの、1716年(正徳六年)発行の書物に記載あり、とのことから、少なくとも江戸中期には巡礼が行われているのである。他方、各お寺の縁起を見ていくと、各所で坂上田村麻呂の名前で出会うことが多い。平安期である8世紀に征夷大将軍として蝦夷征伐を行っている。一方、観音信仰に篤く798年には京都に清水寺を建立している人物でもある。現在の福島県田村市の市名もこの田村麻呂にあやかっているとか。
この平安期の日本の中枢は京都。きっと律令制で整備された官道・東山道を遠征し、国府・多賀城(現在の宮城県)まで東征して行ったに違いない。この当時の東山道は白河関から先は、安達、伊達、柴田へと巡っていく。どうやら仙道三十三観音霊場の中央を北上して行く。近年、この東山道について新たな発見があったようである。奈良平城京の西大寺跡地から見つかった木簡には、東山道が「東巽道」と記載され、当時は「とうせんどう」と呼ばれていた可能性があるらしい。
観音霊場が江戸期に成立する以前から、この地域は坂上田村麻呂の英雄伝説や官軍の闊歩した「とうせんどう」なる言葉がこの地には育まれ続け、霊場が開創される際に、冠としていただかれたのではないかと推測するのである。決して仙台藩に行く道という単純な意味合いではなく、歴史的な素地にその起源があるのではないかと一人歴史のロマンを感じているのである。
今回の口絵の白山寺は、仙道三十三観音霊場の第十二番札所。珍しい茅葺の鐘楼があった。銀杏の紅葉が美しく、山中にあるひっそりとした境内であった。

 

 

 

仙道三十三観音 水彩画 リストA 休日画人の古刹めぐり
仙道三十三観音 水彩画 リストB 休日画人の古刹めぐり

 

 

 

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