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三原郷三十四観音

 

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・縁起不明

・群馬県西部エリアに点在

・標柱が散見される

・ほとんどが堂宇で構成され廃寺も多い

・巡拝の旅は長野原町中央の雲林寺より始まる。南方にある浅間山を展望しながら西進。山裾を縫うように札所を打って進んでいく。中盤で一度起点近く戻り続いて北進。草津町、中之条町の札所を経て再び起点近くへと戻る。終盤は東進。新しくできた「八ッ場あがつま湖」エリアをめぐり、最後は山間の洞窟にある滝沢観音石仏群で結願となる。

 

 

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 「郷」とは?

三原郷三十四観音霊場の開創についての伝承は残されていない。1783年に発生した浅間山の大噴火によりこの地域は壊滅的な災害を受け、縁起・伝承なども一瞬にして葬り去られてしまったのかもしれない。現代は「鬼押出し園」など観光化されているものの、今回の札所のひとつ鎌原観音堂には悲惨な遺構も残されている。昭和の発掘調査では、観音堂の石段は15段ほどであるが、昔は50段ほどあったこと。埋没したその階段には老婆を背負う若い女性と思われる白骨も発見され、火砕流ではなく大規模な土石流がこの村を襲ったこともわかってきている。他の資料では当時600人ほどの村民のうち生きのびれたのは90人ほどとの記述もあり、想像以上の大災害であったようである。

話を戻そう。いつ開創されたのであろうか? 噴火以前から存在している札所もあること。また噴火後の開創であれば、少なくとも口伝が残っていてもおかしくはないと思えることから、たぶん霊場の開創は噴火より前の時代ではなかっただろうか。

そんなことを考えているさなか、妙に「郷」の字が気になりだし調べてみて驚いた。これまで多くの観音霊場をめぐるも「郷」の字が付いているところはなかった。古代律令制の名残りで「国」「郡」の付く場所は多々あるものの「郷」は目新しい。ネット検索をすると以下の文面に出会った。律令制では全国を国・郡・里の3段階に編成。715年郷里制の施行により里が郷に改称。739年ごろに郷制に改められ、以後郷が行政単位の末端として中世に至った、と。わっ、目が点。

他の資料にはこう書かれている。三原庄は吾妻郡の西部にある嬬恋村・長野原町・草津町・六合村一帯の地で三原郷と鎌原郷の二郷より成り立ち、信濃源氏の末裔とされる海野氏の支配下にあった・・・・室町時代のはじめごろになると鎌原氏が三原庄の地頭となってこの地域における第一の豪族に成長・・・云々と。

三原郷の名称はかなり古くから存在し、中世にはすでにこの土地を象徴する名称だったらしい。もしかすると噴火よりかなり古い時代に三原郷に札所が開創されていたのかもしれない。。。

今回の口絵の熊川岩谷堂は、三原郷三十四観音の第四番札所。

 実にわかりにくいところにある。道路沿いではあるものの、もし草刈りをしていなかったら発見できそうにない。

石を積み上げた洞窟風の石蔵の中にひっそりと馬頭観音が佇んでいる。案内板も朽ち果てている。

この三原郷の札所をめぐる際には十分な事前準備をお勧めします。

 

 

 

三原郷三十四観音 水彩画 リストA 休日画人の古刹めぐり
三原郷三十四観音 水彩画 リストB 休日画人の古刹めぐり

 

 

 

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三原郷三十四観音 水彩画 リスト 休日画人の古刹めぐり