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西美濃三十三観音

 

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・1821年(文政4年)に開創。1980年(昭和55年)大垣商工会議所を中心に再興。

・岐阜県濃尾平野の西側に分布

・霊場会HPあり

・のぼりや案内版等あり

・紅葉の名所、揖斐川町の横蔵寺より始まり、大垣市の国分寺で結願を迎える。

 しかしながら札所は順序よく並んでいるわけではないので順打ち等に拘らずに巡っていくのをお勧めします。

 

 

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老中の権威?

 

西美濃三十三観音霊場の縁起は下記のように伝わっている。

「1821年(文政4年)に大垣藩の寺院を中心に開場。そののち一時衰退するも、1980年に大垣商工会議所などが中心となり西美濃地方への観光集客を目指し再興される」と。

 

この「文政」なる時期は、日本史で習ったように江戸期の町人文化のピークのひとつ。

ひとつは「元禄」文化であり、もうひとつは文化文政時代(1804年 - 1830年)をひっくるめた「化政」文化である。   

単純に見れば、町人文化からの盛り上がりが発端となり開創に至った、、、、と。

でもそんな単純な時代であったのであろうか?

 

同じ美濃国に開創されている美濃西国観音霊場について以前に調べた結果が何となく引っかかっている。

「江戸期の美濃国は関ケ原が近いこともあり、美濃国に有力な大名が出現しないよう幕府は10万石未満の小藩多数と幕府直轄領に細分化。全体の約3割は幕府直轄領とし美濃郡代が置かれる」云々。

 

同一藩内であれば、霊場開創も自藩の判断で開創へ至ることもあろうが、

幕府領や他藩が寄せ集まるこの地域に、ましてや懸念される地域に、霊場を開創するにはそれなりのバックグラウンドがあると考えるのはシロウト考えだろうか?

 

話題の中心となっている大垣藩について調べてみる。

ウィキペディアには、「江戸初期は領主が四家も変わるほどたいへん不安定な藩であったようであるが、1635年(寛永12年)に戸田家が10万石で入ったのちに安定。幕末・明治維新期まで存続している」と出てくる。

そんな大垣藩であるが、霊場開創時の藩主は、美濃大垣藩八代藩主となる戸田氏庸(1783~1841年)の時代。

「大垣城天守閣の修築、藩校・致道館の設立などに尽力した」との記述は見られるが、特に抜きん出た人物であったような資料は残念ながら出てこない。

 

右往左往しながらさらに調べていくと気になる人物が出てきた。

先述氏庸の父である美濃大垣藩七代藩主、戸田氏教(1756~1806年)である。

「大垣藩の中興の名主」とも評価される人物であったらしく、将軍の奏者番→寺社奉行→側用人→老中へと幕閣の中心へと上り詰めている。

老中といえば、大目付・町奉行・遠国奉行・駿府城代など幕府全体の指揮監督を担う重職。4~5人で構成され、幕府の舵取りを担っている。

この立場であれば、幕府領や大垣藩および隣藩に対しても影響力を行使することが可能であったはずである。

だが、、、、実際の霊場開創は彼の没後15年たっている。。。。

 

わたしは以下のように推論してみる。

霊場開創のキーマンは、やはり父である戸田氏教であったのではなかろうか。

幕府中枢への影響力がなければ幕府領や他藩を含めた地域への介入は不可避である。

彼が藩主になったのは田沼意次の時代。

幕府の財政赤字がつづき、通貨改鋳や倹約増税を実施。各藩も同様に財政が火の車であった時代である。

そんな大垣藩ではあるが藩内を中山道がとおり宿場町がある。

英邁な藩主であれば中山道から落ちるお金の重要性を十分認識していたに違いないし、霊場開設による経済効果についての他藩の情報を認識していたことも想像に難くない。

 

そんな藩主であるが老中に抜擢されたのは、あの「寛政の改革」を行った老中・松平定信の時代である。

徹底的に華美・贅沢は抑制され質素倹約が遵守され、大規模な棄捐令の反動により日本の経済が一挙に冷え込んだ時代。

ではあるものの、英邁藩主・戸田氏教藩は、大垣藩の文官たちが創り上げる数ある施策のひとつとして、西美濃霊場の草案も胸に秘めていたのではのではないだろうか。

霊場開創にはそれなりの華美なる興行も不可避であり、老中としての立場上、残念ながらこの時代には開創できず、お蔵入りとなったとみる。

 

時は過ぎ、

新たな将軍家斉の時代を迎え、松平定信が罷免され「寛政の改革」も終了。

家斉は贅沢三昧な暮らしを始め、散財を重ねていく。そして化政文化のピークへと。

 

大垣藩の藩主も世代交代し、息子、八代藩主戸田氏庸の時代となる。

藩財政改革は継承され続けている問題であり、父の世代に検討されお蔵入りとなった廃案を再検証。

あるいは文官からの再提案があったのだろうか。

有望株であった霊場開創を、この時代に幕府あるいは美濃郡代に提唱され開創に至ったのではないだろうか。

 

 

今回の口絵の東光寺は、西美濃三十三観音霊場の第六番札所。

興味深いことに、東光の名に沿うように、本堂をはじめ伽藍はほぼ真西を向いて建立されています。

十段ほど石段を上がり山門越しに境内を窺うと。。。この風景が広がっています。

 

 

 

 

西美濃三十三観音 水彩画 リストA 休日画人の古刹めぐり
西美濃三十三観音 水彩画 リストB 休日画人の古刹めぐり

 

 

 

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