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男鹿三十三観音

 

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・縁起不明

・男鹿半島をぐるっと一周。

・石碑、案内板が所々にある

・男鹿市の東隣にある潟上市の自性院からスタート。男鹿半島を右回りにぐるっと一周することになる。初段は南岸にそって札所を打っていく。中段で西端→北端を経由し北の海岸へ。終盤は初地をめざすように札所を訪ね、峰玄院で結願となる。

 

 

 

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ナマハゲ?

 

 今回の旅の舞台は男鹿半島に開創された男鹿三十三観音霊場ではあるが、残念ながらその縁起は残っていない。

 

参考までに、この男鹿の地名をググってみると、陸(おか)が起源であるとか、あるいは遠い平安期の蝦夷・恩荷(おんが)が起源であるとか。

 

どうしてこの地に霊場が開創されたのであろうか?

 

何かきっかけとなるものはなったのか?と、この地の統治をおおまかに調べてみると、

鎌倉時代から戦国時代までは安倍氏の流れをくむ安東氏、そして関ケ原の戦い後、国替えが行われ、常陸国の佐竹氏と入れ替えになっている。 いずれも男鹿半島にはとどまらず広域の土地を所領としており、男鹿半島に限定される今回の霊場との関連性は低くそうである。

 

そういった中、ちょっと気になるのがナマハゲ文化である。 なぜかといえば、男鹿半島という地域性があり、これが霊場縁起の手がかりになるかもしれないと思えたことに他ならない。

そのナマハゲ。 いまや全国的に有名になっているが、ユネスコ文化遺産に登録となった事由を確認してみると、

来訪神(年に一度決まった時期に人間の世界に来訪するとされる神)文化として取り上げられており、男鹿のナマハゲ以外にも日本各地で約10件が同時登録となっている。

見方を替えれば、強烈な外来文化により日本各地で文化伝染したとも読めなくはない。

 

ひと昔前、車や鉄道がない時代の物流の担い手は船である。

日本海沿岸は北前船に代表されるように船の交易により人、物、金が動き、男鹿の地もそうした意味で富の集積地のひとつであったはずである。 大いに栄え、同時に多くの情報や文化が入ってきていただろうことは想像に固くない。

 

実は男鹿には貴重な資料が残っている。 江戸時代後期の旅行家 である菅江真澄 (1754頃~1829)は長年男鹿を旅し多くの紀行文を残している。 ナマハゲは絵入りで登場するが、残念ながら男鹿三十三観音霊場に関する記録はないようである。 といことは開創は彼の時代より後世か?

 

なかなか憶測の域を出ないが、全国的に江戸期に各地に爆発的に観音霊場が広がった事実を考慮すると、以下のようなシナリオが成り立つであろうか。

時期は江戸末期? もともと男鹿の地は北前船の交易により、多く最新情報や新しい文化が入ってくる土壌があった。

当然各地の観音信仰の高まりも耳にしていたはずである。 海の安全は太古から地元の信仰対象であり、そこが結びつき、また娯楽の少ない時代の楽しみのひとつとして開創されたのではなかろうか?

 

長くなるので簡便に。

もう一点興味をそそられるのが住所の表記である。

例をあげれば、今回の第二十五番札所である雲昌寺は、「秋田県男鹿市北浦北浦字北浦57」

他の札所にも同様に地名の反復するところが多い。 誤記?ではなく重複が正しいと。 興味があれば是非調査あれ。

 

今回の口絵の清松寺は、男鹿三十三観音霊場の第四番札所。

男鹿半島の南端の付け根部分。 八郎潟調整池からの水路沿いに船越の集落が広がっている。 狭い道路がちょこちょこ走っているのは海辺の町にはよく見られる風景。 そんな街中にお寺がある。 入口には大木が鬱蒼としており、境内にたくさんの石像が並び立ち、大切に祀られているのがわかる。

 

 

男鹿三十三観音 水彩画 リストA 休日画人の古刹めぐり
男鹿三十三観音 水彩画 リストB 休日画人の古刹めぐり

 

 

 

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男鹿三十三観音 水彩画 リスト 休日画人の古刹めぐり