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能登国三十三観音

 

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・縁起不明

・能登半島に点在。

・石碑、案内板が各所にある

・能登半島のかなり奥まったところにある穴水町の明泉寺からスタート。 富山湾に沿いを南下するように札所を進んでいく。 初段で内浦に浮かぶ能登島に渡り、七尾市を経由しながら中能登町、羽咋市へと札所を打っていく。 後半は外海沿いに輪島市、そして最北端の珠洲市翠雲寺で結願を迎える。

 

 

 

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いまは便利な時代。

 

誰でも容易に日本の地形を観ることができる。
今回の旅の舞台である能登半島も、地図を見ると、何となく良くまとまっていて、ひと塊だよね~。と。

ところがいざ調べていくと、いろいろな事が出てくるのである。

古くは成務朝(実在したとすれば4世紀中ごろに在位)には能登半島に能等国造が置かれ、次いで雄略朝には羽咋国造が置かれ能登半島には二国存在していたらしい。しかも能登ではなく能等と。
その後越前国の一部となり、養老2年(718年)にこの越前国から羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡を分立して能登国が成立。 江戸時代は加賀藩の前田氏が領有。 明治の廃藩置県後は七尾県となり、その後石川県へと。

地図を見るほど歴史は単純ではないのである。


能登の氏名について調べてみると、

『古事記』には崇神天皇の皇子、大入杵命の子孫として能登臣氏が登場する。 この臣(おみ)は姓(かばね)のひとつであり、有力な豪族に許された称号のひとつ。 他には連(むらじ)等もある。 『万葉集』には、能登臣乙美(のと の おみ おとみ)の和歌が掲載されているとも云われている。
能登氏は有名であったのである。


能登臣の本拠地は能登半島の内浦(七尾市周辺)であり、半島の外浦側は羽咋国造の勢力圏。

すこし時代が下って平安後期になってくると、『和名抄』の編纂で有名な源順が能登国守として赴任してくるが、国府の場所として「能登国国府在能登郡」とあり、現在の七尾市古府の総社付近に国府があったと推定されている。


ちょっと話をまとめよう。

能登氏は、7世紀律令制が始まる以前から皇族の臣籍・地方豪族として現在の七尾市あたりを中心に地盤を張っていたようである。 どうやら「ノト」と云われていたこの地は、律令制で漢字表記される際、古くは能等、その後能登へと変化。そして8世紀に養老律令へと移行する過程で能登国が登場したとなる。 う~ん、かなり古い。



さて、こうなると、観音霊場が成立する時代背景に興味がそそられる訳であるが、あいにく、、、、情報がない。 江戸期にはさかんに巡礼が行われていたとの言い伝えはあるのだが。

北陸の地は戦国末期には蓮如に代表される一向宗の有力な地盤であったはず。

そうした時代背景、民族文化の中、どのようにして観音霊場が成立したのか? 
たいへん歴史的興味が尽きない。

 

 

今回の口絵の妙観院は、能登国三十三観音霊場の第七番札所。ナビに案内されながら七尾市にある主要道路沿いの駐車場に車を停める。はてお寺は? 目の前には10mほどであろうか小高い岩山。 お寺はその裏側に身を隠すように建立されている。竜宮城に描かれるような可憐な山門が待っている。

 

 

 

 

能登国三十三観音 水彩画 リストA 休日画人の古刹めぐり
能登国三十三観音 水彩画 リストB 休日画人の古刹めぐり

 

 

 

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