AKITA33

秋田三十三観音

 

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・1987年に秋田魁新報社が再興

・秋田県全域に分布

・案内版等は所々で見られる

・横手市の正伝寺よりスタート。序盤は秋田県の南部を中心に日本海側へも渡りながら札所を打っていく。北上しながら中盤で秋田市周辺をめぐる。さらに北上し男鹿半島から能代へ訪ね歩いていく。終盤は内陸に入り、大館・鹿角へと。結願は大館市の信正寺で迎えることになる。

 

 

 

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方便か?

 

 現代に残っている秋田三十三観音霊場は、1987年に秋田魁新報社が再興したものと云われている。

その前身は「秋田六郡三十三観音霊場」。

その縁起によれば、長久年間(1040~44)に出羽国御嶽山満徳長者・保昌坊が発願。

西国観音霊場巡拝の後、仏師の定朝に観音像33体を作らせ、故郷のお寺に奉納して開創された、云々と。。。

 

今をさかのぼること約1千年前。どんな時代だったのであろうか?

 

日本史で習ったように、関東では939年に「平将門の乱」。同時期、関西では「藤原純友の乱」が勃発。

東北では少し遅れて1051年に「前九年の役」。。。と各地で朝廷支配による軋みや怒り憎悪が鬱積。

その民の怨念が各地で噴出していたような暗い世情であったのではなかろうか。

 

東北にフォーカスすると、

すでに蝦夷は朝廷により淘汰され、そのほとんどが朝廷の支配を受け入れた俘囚へと鞍替えが完了。

この俘囚の長として清原氏や安倍氏が台頭しはじめた頃合いである。

歴史はその後、「前九年の役」へと雪崩れ込んでいくのである。  

 

さて、なぜ、何のためにこんな時代に霊場が開創されたのだろうか?

 

ネット情報を辿っていくと、やはりこの開創の件で調べている先達がいた。

それによれば、「秋田六郡三十三観音霊場」の前身にはさらに「出羽六郡三十三観音霊場」があった。
ここにはもっと保昌坊に関する記載が残っているらしく、平泉金色堂で有名な清衡(生1056-没1128)の祖父の代から系譜が枝分かれているようであり、少なくとも清衡よりも2世代ぐらい後世代ではないかと。

また一番札所が清原氏の氏神である御嶽山塩湯彦神社であることや清原氏の居城であったといわれる金沢柵近くの祇薗寺が札所になっているなど相当に清原氏との関連が深いことを指摘。

清原氏族の鎮魂の目的で開創されたのではないかとの推察が書かれている。

なるほど。なるほど。

 

ではなぜ、開創時期や縁起がずれているようになっているのか?

 

これに関する記述はないが、私は今以下のように想像する。

 

先達の調査にあるように、確かに保昌坊は清衡氏の2世代ほど後進であったのであろう。そのころまだ奥州藤原氏(清原氏)は栄華を誇っていたはずである。 彼は高い信仰心と生まれながら背負った社会的役割から、前九年や後三年の戦乱で果てた尊い多くの清原氏族の菩提を弔うべく観音霊場を開創したのであろう。

 

その後歴史は急転直下する。

彼の拠り所であった奥州藤原氏は源頼朝の奥州征伐により滅亡の道へと向かうことになる。

保昌坊の開創した出羽六郷三十三観音霊場も奥州藤原氏との関連が疑わればその致命的な結果を免れないはずである。

頼朝への方便として、

出羽六郷三十三観音霊場は、もっと古いの時代からこの地に存在し、しかも霊験は西国三十三観音霊場から譲り受けていると。 したがっていまの奥州藤原氏とは直接の関係はない。云々と。

「吾妻鏡」にもあるように頼朝はきわめて熱心な観音信者であったようである。

信心深さを逆手にとって、現実とは違った虚偽の方便をもってピンチを乗り切り、いまやそれが正史となって伝承され続けてきているのではないのだろうか。

そんな空想する今日この頃である。。。

 

今回の口絵の蔵光院は、秋田三十三観音霊場の第五番札所。

横手市の郊外・雄物川近くにある。お寺の駐車場に車を停めると、うっかりと山門を通り過ぎ、見るのを忘れたことに気づく。本堂への長いアプローチ。緑が豊かである。もともとこの地には沼の柵(砦)があり、後三年の役の激戦地であったところとか。絵は本堂周りの情景をスケッチしている。

 

 

秋田三十三観音 水彩画 リストA 休日画人の古刹めぐり
秋田三十三観音 水彩画 リストB 休日画人の古刹めぐり

 

 

 

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