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塩田平二十一


 

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・1693年(元禄六年)開創。その後明治初期に再興。

・長野県塩田平地域に点在する大師霊場。

・巡拝は長野県上田市下之郷の『遍路堂』よりスタート。まずは南下し上田市富士山周辺をめぐる。西側に移動しながら山の中腹の札所を打っていく。塩田平および浅間山の眺望を楽しみながら別所温泉方面へ。国宝・重文クラスの寺院が続く。後半は塩田平の北エリアを西から東へ。スタート地点へ戻ってくる。

 

 

 

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塩田平は平安時代に荘園化したと。

建春門院に寄進され安永4年(1174年)に最勝光院領塩田荘が成立。この塩田平は晴天率が高く降水量が少ない。このため古くから農業用水の確保のため多数のため池が各所に造られています。ため池や水路づくりなどの当時の先端技術は弘法大師や弟子たちにより大陸から伝えられたと云われています。時代が下り鎌倉時代に入ると、幕府により島津忠久が地頭に補任されるが、比企能員の変に連座し北条氏の所領となる。北条義政に始まる塩田流北条氏が塩田城を居城とし、この地に鎌倉仏教や禅宗文化などが花を開いていきます。室町時代には、足利尊氏に属する村上信貞に安堵されるも、天文22年(1553年)武田氏へ支配が移行。その後は天正壬午の乱後の天正11年(1583)に小県郡を統一した真田昌幸の所領となり、江戸時代には上田藩領となる。 やがて徳川幕府の政権が安定するころ、塩田城は廃城となり塩田平そのものは幕府の直轄領となって明治初頭まで続いていくことになります。この塩田に霊場が開創される1693年ごろは天領として安定していた時期。四国八十八ヵ所霊場の写し霊場がこの塩田平に勧請されますが、明治初頭の記録では札所めぐりの形態はすでに崩れていたようで、その後、北条家の古文書を参考に太子霊場に形を変え、計26ヶ所で塩田平二十一霊場が再興されています。
今回の口絵の石神釈迦堂は、塩田平二十一霊場の第五番札所。高層の近代建築を背景に古びた御堂がちょこんと佇んでいます。広がりのある情景をスケッチしています。

 

 

 

塩田平二十一 水彩画 リストA 休日画人の古刹めぐり
塩田平二十一 水彩画 リストB 休日画人の古刹めぐり

 

 

 

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塩田平二十一 水彩画 リスト 休日画人の古刹めぐり