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最上三十三観音


 

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・1430年代、光姫伝説による創始。1526年(大永六年)の納札が現存しているらしい。

・山形県中央部の山形盆地に分布。

・置賜、庄内、最上をあわせ出羽百観音霊場と称される。

・子年開帳。

・巡拝は天童市の若松寺からスタート。初めに山形盆地の東エリアをめぐりながら南下し上山市まで進んでいく。ここを南限としUターン。盆地の西エリアを北上しながら尾花沢市へ。ここで巡礼を重ねた後、北方の最上町へジャンプ。結願はさらに西にジャンプし鮭川村で迎える。

 

 

 

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最上郡は裳上郡とも書かれていた?

『続日本紀』には和銅5年(712年)に置賜郡とともに出羽国に割譲されたとあり、これが最上郡の文献初見である、と。
最上一帯を制した名族最上氏は清和源氏の足利氏の支流。三管領の一つ斯波氏の分家にあたる。南北朝時代の延文期(1356年 - 1360年)に斯波氏傍流の奥州管領斯波家兼の子、斯波兼頼が出羽国按察使と称して出羽国最上郡山形(現・山形県山形市)に入部し、山形城を築城し本拠とし、室町幕府より屋形号を許されて所領の最上郡に因んで最上氏を称することとなる。最上氏初代兼頼以降、寒河江氏を討伐して出羽国最上郡の南朝勢力を一掃し、2代直家・3代満直が最上郡・村山郡へ子らを分散配置することにより勢力を伸ばし最盛期を迎える。
そんな中、歴史に彩られた光姫伝説が起こり、最上三十三観音と結びついていくことになる。
簡単なあらましは、光姫は斯波兼頼から五代目頼宗の一人娘で容姿端麗にて多くの求婚をされるも京都五条の公達を婿養子として迎えることになる。そうした中、恋に破れた横川大膳国景は姫の略奪を企てるも失敗に終わり処刑されることに。大膳処刑の後、姫はこの事件に心を痛め出家を決心することになる。城を落ち、途中で出会った翁から観音霊場の話を聞き、巡礼に旅立つことになる。一旦髪をおろした姫ではあったが、旅先で妊娠に気付くも、城に戻ることもできず玉のような男児を産みおとすことに。観音霊場から名前をいただき「若松君」となる。八年の歳月が過ぎたころ、頼氏は風邪がもとで亡くなり、世継ぎのない頼宗は憂慮の生活を送ることになってしまった。姫らしき人が山寺にいるという噂が流れ、人手を尽くすも、村人の口は堅く、落胆のままでの帰還となる。しかし帰路の途中、まわりの子供とは明らかに気品の違う子に出会い、問いただした結果、「若松君」と知り、祖父と孫の劇的な対面につながっていく。この若松君が後の六代目義春と伝えられている。
今回の口絵の若松観音は、最上三十三観音霊場の第一番札所。重厚な軒の造り、そして長い風月を経てできあがる風格を兼ね備えている。軒下より建物のひろがりを点描している。

 

 

 

最上三十三観音 水彩画 リストA 休日画人の古刹めぐり
最上三十三観音 水彩画 リストB 休日画人の古刹めぐり

 

 

 

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