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行方郡三十四観音


 

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・慶応四年1868年の「行方岩洞巡拝記」が残る

・旧常陸国の行方郡周辺に開創

・案内板なし

・行方市の西蓮寺から巡拝スタート。初段は北浦の北端に向かい、西沿岸に沿って南下していく。中盤で現在の潮来市まで南下したところで反転。今度は霞ヶ浦の東沿岸を北上。起点近くで結願を迎える。

 

 

 

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「行方」は何と読む?

大化改新後の律令制の発足によって、行方郡のある常陸国は歴史の表舞台に大きく登場してくる。国府は現在の石岡市。この常陸国の中には11の郡が置かれ、そのひとつとして「行方」が名を連ねている。この平安期には桓武平氏の流れをくむ常陸大掾氏が統治。行方四頭よばれる行方・島崎・麻生・玉造氏が活躍している。肝心の土地であるが、地形は現代とは大きく違っていたようで、霞ケ浦、北浦の原型はあったものの、常陸国風土記によれば、内海と表現されるぐらい海水が入り込み、かなり広い地域が湿地あるいは沼地をなしており、塩の生産や海水魚が捕れていたとか。

時代が移り江戸期に入り「利根川東遷事業」と呼ばれる河川大改修がなされる。利根川の水は霞ヶ浦へと流され、水運が大きく整備されると共に、江戸の治水環境が大きく改善される。他方、土砂は下流へと運ばれ、現在に近い、霞ケ浦、北浦を形成。湖は汽水化、淡水化し、生息する動生物の環境が劇的に変化している。そんな江戸期であるが、新庄氏による麻生藩が立藩しこの地を統治している。世継問題などの波乱も経、幕末まで麻生藩は続いていく。

行方郡三十四観音の縁起は不明であるが、1868年の巡拝記が残っていることから、麻生藩が統治している時代には観音霊場が開創されていたようである。現在の観音霊場のエリアは、行方市をメインとし、潮来市、鉾田市に点在しているが、当時の行方郡の郡域は、行方市と潮来市の全域、そして鉾田市の一部(巴川の南西エリア)がそのエリアとなっており、すべてが行方郡内に点在していたようである。

今回の口絵の西蓮寺は、行方郡三十四観音霊場の第一番札所。大きな敷地の入り口には仁王門。随所に桜の木が植えられ、さぞや春は見事であろうと。本堂へ行く前には、常行堂・薬師堂・鐘楼などなど、見応えのある建造物が配置され、うっかりすると時間がたつのをを忘れてしまうので要注意。 

 

 

 

行方郡三十四観音 水彩画 リストA 休日画人の古刹めぐり
行方郡三十四観音 水彩画 リストB 休日画人の古刹めぐり

 

 

 

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