TANGOYOZA33

丹後与謝三十三観音

 

<<参考情報>>reference

・1910年(明治43年)に開創→後再興。

・宮津市&与謝郡に分布。

・案内版が散見される

・与謝野町の玉田寺からスタート。 宮津湾沿いに北上しながら札所を進み伊根町へ。 中盤で天野橋立までもどり今度は対岸へ移動。 宮津を満喫した後与謝野町を訪ね歩いていく。 番外三箇所のおまけ付き。

 

 

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ダンベル?

 

今回の旅の舞台は丹後半島。 

丹後与謝三十三観音を巡拝してきたのであるが、残念ながらその縁起はよくわかっていない。 

前身となる与謝郡西国三十三観音が開創されたのは1910年(明治43年)と云われ、

1980年ごろに再興され、その後名称も丹後与謝に変わってきている。 

 

この観音霊場のラインナップを見ると、多くが宮津市に点在していることに気付く。

この宮津市は、地図上、実にユニークな形をしている。

 

この市の中央には宮津湾があり、地面の部分は南と北に二分されたような状態になっている。

そしてその間を日本三景としても知られる「天橋立」が繋いでいるのである。

まさにダンベルのような形。

 

車で市内を行き来するには、隣町(与謝野町)をぐるっと経由することになる。

なんともはや不便そうな。。。。

 

江戸時代にはここに宮津藩があったのであるが、この時代の流通の主役は船。

特段不都合はなかったかもしれない。

この時代「南の祇園・北の宮津」と詠われるほどに栄華を誇っていたと云われるも

明治維新にて宮津藩も与謝郡の中に吸収されていく。

 

この「よさ」の地名は古い。

初見は日本書紀で、

・・・・雄略天皇22年(478年)に「丹波國餘社郡」・・・・云々

 

宮津湾で行われる漁法「よせあみ」が「よさみ」に。そして「よさ」へ転訛した、、、との説もあり、

地元では与謝郡を「よさぐん」ではなく「よざぐん」と発音されることが多いらしい。

高速道路の与謝天橋立ICも「よざあまのはしだて」であるし、行政上も「よざ」と読まれているとか。

したがって今回の丹後与謝三十三観音霊場はこのHPでは「たんごよざ」にしておきたいと思います。

 

歴史マニアの方はお気付きだったかもしれませんが、

前述の日本書紀には「丹波国」と記してありました。

確かに7世紀ごろ丹波国のなかに与射評なる行政区が設置され、701年の大宝律令の際に評が郡に変更。

この名称が日本書紀に記述されている。

そしてその後713年に丹後国が新たに発足する際にこちらに吸収され、丹後与謝へと移り変わったそうなのです。

 

明治期は、江戸期の文化や名称は避ける傾向が強く、栄華を誇ったいわれる「宮津」の名称も排除。

開創時は「与謝郡西国」が採用されている。

 

再興の際に名称が変更になった理由は不明であるが、

あえて推測するならば、

宮津市の成立などのように、将来的にどんどんと「与謝郡」の分離や縮小は避けられない。

であれば、、、と末代までの弥栄を願い、律令期の地域名称を採用したのではないだろうか。

 

温故知新

歴史を訪ね、思いを馳せることは実に楽しいものである。

 

 

丹後与謝三十三観音 水彩画 リストA 休日画人の古刹めぐり
丹後与謝三十三観音 水彩画 リストB 休日画人の古刹めぐり

 

 

 

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丹後与謝三十三観音 水彩画 リスト 休日画人の古刹めぐり