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若狭三十三観音

 

<<参考情報>>reference

・1982年(昭和57年)11月に開創。

・若狭湾沿いに分布。

・霊場会HPあり。

・のぼりや案内版等あり。

・敦賀市の永厳寺からスタート。若狭湾のリアス式海岸を愛でるように西進し札所と打っていく。中盤、小浜市に集中している多くの札所を打つ。最後は高浜町の中山寺で結願を迎える。

 

 

 

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古いのに新しい??

 

若狭三十三観音霊場の開創は、霊場会HPによると、1982年(昭和57年)11月とある。

割と新しい霊場である。

巡拝していくと気づかされる事だが、国宝に指定された建造物や尊像等に所々で出会う。

鎌倉期であればざっと800年前にもなるが、そんな史跡がそこかしこに点在している。

古い時代から観音霊場が存在していてもおかしくないような土地柄に思われるのだが、

若狭観音霊場はなぜ近代になって開創されたのであろうか?

 

「若狭」についてネット検索をしてみると実に興味深いことが出てくる。

まず日本書紀にも登場し、若狭国造や都怒我阿羅斯等の記述が出てくるらしい。 

ということは、この若狭地方には律令制が施行される以前から国造が置かれ、大和政権として重要な拠点のひとつだったことを窺い知ることができる。

嫋やかな山々が海に沈み込む若狭のリアス式海岸は、古来から天然の良港。

大陸からの文化をはじめ、日本各地からの文化が流入。そして物資も集積する重要な拠点であったことは疑いもない。

 

奈良にあった藤原宮跡から出土している木簡からは、若狭国は調・庸として数多くの海産物を朝廷に献上していることが記されており、塩の生産が重要な産物のひとつであったようである。

 

そして文化史のひとつとして驚かされるのは、奈良の東大寺と関連した行事がいまも現存しているという事実である。

奈良の東大寺二月堂で行われる「お水取り」の行事は、いまでは全国的に知れた春を告げる風物詩のひとつとなっている。

が、この「お水取り」に先がけて、小浜市神宮寺では毎年「お水送り」の行事が行われている、と。 

現在に至る約1200年もの間、脈絡と文化が継承され続けているのである。

この当時、東大寺は小浜周辺に荘園を持っていた史実が残っており、

この「お水送り」で得た「お香水」は、若狭鵜の瀬から10日をかけて奈良東大寺二月堂「若狭井」に届けられた、と。

実に日本文化の深さ、そして先達の残してくれた文化遺産に大いなる誇り感じる次第である。

 

その後の若狭国であるが、、、

ざくっと、

鎌倉時代には北条氏が守護となり、室町時代に一色氏。次いで武田氏の領国となる。

戦国時代末期に丹羽長秀そして浅野長政が領主となる。江戸時代は、はじめ京極氏、後に酒井氏が封じられている。

 

話を本題に戻そう。

なぜ近代まで若狭の地に観音霊場が開創されなかったのであろうか?

文化が成熟し、観音霊場が全国的に爆発的に拡がっていくのは、江戸期の元禄や化政の頃。

この時代は酒井氏が若狭の中心である小浜藩の藩政を担っている。

酒井家は徳川政権の譜代大名の中でも重要な家系のひとつであり、明治初頭まで脈絡と安定政権が続いている。

どうもこの政権が障害となっているとは考えにくい。

 

もうひとつ推測される事由としては、

日本の観音霊場としてもっとも権威のある、西国三十三観音霊場が近くにあり、その気運が起きなかったのか???

この若狭の地は、西国三十三観音霊場の29番「松尾寺」と30番「竹生島宝厳寺」を結ぶ巡礼のライン近くに位置している。

多くの巡礼者がこの地を行き来していたはずであり、また前述のような「お水送り」といった大きな神事が存在するために、新たにこの地に観音霊場を開創するような気運が起きなかったのであろうか。

歴史はいろいろなロマンを秘めている。。。

 

今回の口絵の国分寺は、若狭三十三観音霊場の第十三番札所。

国分寺は聖武天皇の命により全国に建立されたもの。若狭の国分寺は幾多もの火災を経、現在は釈迦堂が建てられており、1705年の再建と云われている。

国分寺は若狭国の中心付近に建立されたであろうことから、当時はこの辺りが中心地だったのであろうか???

ぜひともこの地に立ち、歴史に思いを馳せてみてはいかがであろうか。

 

若狭三十三観音 水彩画 リストA 休日画人の古刹めぐり
若狭三十三観音 水彩画 リストB 休日画人の古刹めぐり

 

 

 

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若狭三十三観音 水彩画 リスト 休日画人の古刹めぐり