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呉東新西国三十三観音
<<参考情報>>reference
・1933年(昭8年)富山地方鉄道初代社長・佐伯宗義氏の提唱で霊場会が発足
・富山県の呉東地方に分布
・案内版等は所々で見られる
・上市町の立山寺よりスタート。順打ち・逆打ちができるようなルート設定にはなっていないようです。固執しないことをお勧めします。
<<ぎゃらり>>gallery
<<ぷち情報>>petite info
旅の舞台は「呉東」
はてさて、富山県民の方々を除き、何人の方がこの「呉東」の意味がわかるであろうか?
富山県にはほぼ中央に呉羽山そしてそれに続く丘陵地帯が神通川に沿うように南北に連なっており、平地を東西に分断している。 この丘陵の東側を呉東(ごとう)、西側を呉西(ごせい)と呼び親しんでいるのである。 標高カラー付のMAPで見ると一目瞭然。 面白いように丘陵地が平地を東西分断しているのが見てとれる。
ネット情報によれば、言葉だけでなく、文化や風習についても呉東呉西では差異があるとか。
そして歴史を調べていくと興味深い情報がいろいろと。
日本史でも習ったように、江戸時代は幕府は常に諸藩を監視し、その勢力を削ぐためにいろいろな画策をしている。
江戸初頭。この地は加賀藩の所領地。
加賀藩は現在の石川県と富山県をあわせた広大な領地を管轄、百万石と云われる栄華を極めている。
当然、幕府としては注意を要する藩のひとつである。
幕府はまずは三代藩主前田利常に、二代将軍徳川秀忠の次女を嫁がせ懐柔。
また利常が隠居する際には、次男・利次にも加賀藩領に富山藩を立藩させ勢力を分散させている。
この利次の母には徳川の血が流れているのだから加賀藩としては面白くない処。
あまり使い勝手の良くない土地?丘陵地である呉羽丘陵周辺を所領として宛がい、呉東・呉西から挟み込むように監視できる体制をとっている。
そしてこの富山藩は明治維新まで約200年、連綿と続いていくのである。
呉東呉西の文化・風俗の差異はこの所領体制が一因になっているのではないか、と歴史に思いを馳せるのである。
さらに「富山の薬売り」はたいへん有名であるが、この富山藩が発祥となっており、自ずと全国の情報がこの地に集まっていたことが窺える。この徳川の息のかかったこの地に。。。
今回の口絵の日石寺は、呉東新西国三十三観音霊場の第三番札所。
上市町の山奥に日石寺の境内が広がっており、本堂・山門をはじめ、地蔵堂・大日堂・観音堂・愛染堂などなど、たくさんの仏塔やお堂があり、滝修行もできることでも有名な所。
絵は観音堂を上方からスケッチ。1F部分はRC工法の近代建築となっていますが、そのうえに観音堂が設えられています。
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