<<参考情報>>reference
・1714年(正徳四年)荒沢寺の大恵東水和尚が選定。
・山形県西部の庄内地方に点在している。
・置賜、庄内、最上をあわせ出羽百観音霊場と称される。
・寅年開帳。
・ルートは主番の鶴岡市羽黒町の荒沢寺から始まる。近隣を巡拝した後、山を下り札所を重ねていく。中盤では酒田市などの北エリアを訪ねるが、順序良く並んでいないので注意が必要である。終盤は鶴岡市へ南下して行き、この地で結願となる。
<<ぷち情報>>petite info
江戸初期に起きた最上家のお世継ぎ騒動によって最上家が改易。
その後、出羽庄内には鳥居忠政の妹婿の酒井忠勝、出羽新庄には鳥居忠政の女婿戸沢政盛、出羽上山には鳥居忠政の従兄弟である松平重忠と、譜代大名団がクサビの形として奥州深くに転封され、庄内藩は前述のように酒井忠勝が信濃松代より鶴ヶ岡に入国することから始まっている。
庄内は米どころ、かつ酒田は北前船の寄港地として繁栄する。が、5代・忠寄は正妻を加賀藩・前田氏より迎え、また老中として幕閣の一翼を担い、日光東照宮修理の割り当てと出費がかさみ赤字藩へと転落。
7代・忠徳の代になると借金はさらに20数万両に膨らむことになる。ここに藩命により、酒田の豪商・本間光丘に藩政立て直しが指示される。藩士・農民の借財を肩代わり、江戸藩邸の支出を抑制、借金の返済。また飢饉に備え備蓄米の準備等々。その後は家老竹内八郎右衛門を中心にして農村改革が施行され、富農には困窮与内米を課し、それを飢饉時の農民救済資金へ。また手当米による公有地での耕作をさせるなどの諸政策は実を結び藩財政は好転する。このような歴史を経て、藩と農民の団結が強固になり藩政が安定。庄内藩は江戸期を通じで移封が行われなかった数少ない藩のひとつとなる。さて、庄内三十三観音霊場の開創は1714年。豪商・本間光丘が歴史に登場する前夜と言った時期。藩内は大きな財政赤字に困窮していた時期だったのかもしれない。
今回の口絵の大日坊は、庄内三十三観音霊場の第九番札所。藁ぶきの山門、ちょうど水をたたえたばかりの水田が素晴らしい風景を奏でている。本堂には即身仏が人々の営みを見守ってくださっている。