KUMANOSAIGOKU33
熊野西国三十三観音
<<参考情報>>reference
・縁起不明
・三重県熊野市を中心に近隣一帯に広く分布
・各所に看板あり
・スタートは熊野市の安楽寺から。 初段は熊野市内の札所を訪ね歩き、徐々に北方の山間へ入って行く。 中段では山間エリアを南下しながら札所を巡り、県境の紀宝町へと至る。 終盤は海岸エリアを北進しながらスタート付近の極楽寺にて結願となる。 ただし番外として9箇所の寺院が登録されており、要領よく巡拝されることを推奨します。
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「熊野」ってどこ?
今回の旅の舞台は「熊野西国三十三観音」である。
いまや世界遺産のひとつに登録されている「熊野」の地。
事前調査もそこそこに興味ばかりが先に立ち、いざ出発!!
現地に行って初めて知ることは実に多いもの。
今回の熊野西国の寺院はほとんどが三重県内にあった、、、、
いまさらながらではあるが、近畿地方に土地勘のない下野国の小生。
「熊野」って、紀伊半島の南の方とだけは認識してはいたのだが、三重県だったとは、、、予想外。
いまどきの小学生にも笑われてしまいそうである、、、、
もう一度、熊野の地について調べてみると、
熊野≒牟婁郡(むろぐん)と出てくる。
しかも現在では、西牟婁郡と東牟婁郡が和歌山県に。
南牟婁郡と北牟婁郡が三重県にあり、不思議な組合せになっている。
ひと昔前の江戸時代について調べてみると、
この地は徳川御三家の紀州藩が牟婁郡一帯を統治している。
和歌山に近い方から「口熊野」「奥熊野」と呼び、口熊野代官所が現在のすさみ町に、奥熊野代官所が現在の熊野市に置かれ、両熊野の中心を担っていたらしい。
明治の廃藩置県の中で、この「奥熊野」と呼ばれていた辺りが三重県に編入され、その後一部は市政化し、熊野市等々に至っている。
今回の「熊野西国三十三観音」は奥熊野と呼ばれていたエリアに開創された霊場だったのである。
ついでに、古代の熊野についてググってみると
国造本紀(先代旧事本紀)にヤマト朝廷の時代の熊野国造にまつわる史実が残っているらしい。
第13代・成務天皇の時代に饒速日命の5世孫である大阿刀足尼が熊野国造に定められている。
熊野国造とは熊野エリアの地方長官と考えられる高位な地位である。
またその子・稲比が熊野直の姓を賜姓されたと書かれているとか。
その後、大化の改新を経て律令制に移行する際には
熊野国造は紀伊国に編入され、熊野国造家の子孫が熊野三山の熊野本宮大社の禰宜職に就き、以来代々世襲、、、、と。
熊野三山とは熊野本宮、熊野新宮、熊野那智を指しているのであるが、
この辺の話題については「熊野曼荼羅三十三」を巡拝した折に、触れてみたいと思います。
話題を「熊野西国三十三観音」に戻しましょう。
上述のように、熊野と三重県の関係はわかったものの、その縁起については残念ながら現代には伝承されていない。
現在、総寺院数42箇所の大所帯となっており、この観音霊場が奥熊野エリアの地域振興の一翼を担っていたことを窺い知るエビデンスと考えると、、、割と新しい霊場なのかもしれない。。。
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