<<参考情報>>reference
・1783年(天明三年)に開創。1928年(昭和3年)再興。
・埼玉県本庄市を中心に近隣にも点在。
・道程は本庄市の成身院からスタート。まずは児玉町の街中へ向かい林立する札所を訪ねる。次に東エリアの美里町へ進み円弧を描くように上里町へめぐっていく。その後西エリアに進み、最後は児玉郡神川町の大光普照寺で旅を終えることになる。
<<ぷち情報>>petite info
児玉の名称を探っていくと。
平安時代に群雄割拠した武蔵七党の内の最大勢力である児玉党に行きついた。12世紀頃児玉党の本宗家4代目が現在の本庄市栗崎の地に館を築き、
13世紀頃、本庄氏を名乗り、現在の本庄市北堀の地に館を築いている。15世紀には五十子の戦いが始まり、本庄氏の城下町であったが、のちに小笠原氏の城下町となり、16世紀の終わりには本庄藩が生ずるも17世紀初期には廃藩となるという、目まぐるしい領主の政権交代劇が行われている。廃藩、廃城となったものの、城下町や中山道沿いにかつて本庄に城下町を創った新田氏家臣の末裔と言われる人々も移り住むようになり、宿場町としての役割を担うようになり、18世紀には中山道で最大の宿場町となり発展していく。
児玉三十三観音霊場は1783年開創と云われ、宿場町が隆盛を迎えるこの時代に形作られているようである。残念ながら、今回の調査では観音霊場と浅間山大噴火との関連性は見いだせていない。
今回の口絵の普明寺は、児玉三十三観音霊場の第二番札所。山門前の様子をスケッチ。本堂は残念ながら町の集会場的な雰囲気であった。