<<参考情報>>reference
・1690年代(元禄年間)光圀公による発願と云われる。
・茨城県の中北部に大部分が点在。栃木県、福島県にも一カ所ずつ札所がある。
・堂宇の比率が高く、廃寺も多数。
・スタートは水戸市の神崎寺から。初段では水戸市の街中および郊外をめぐっていく。中盤からは沿岸沿いに北上し、日立市や北茨城市などの札所を訪ねる。福島県との県境で西方面に転回し、阿武隈山地を越えながら大子町近隣の札所をめぐっていく。最後は城里町の仏国寺で結願を迎える。
<<ぷち情報>>petite info
答えは水戸藩だった。
今回の旅の舞台は常陸水戸三十三観音霊場。現在の水戸市郊外からはじまり太平洋沿岸を県北へ。そして西へ展開し、大子町、城里町へと訪ねていく。なぜ「水戸」三十三なのだろうか。我が頭脳には現在の水戸市の形だけがインプットされている。なぜ多くを水戸市以外、特に県北をぐるっと巡拝して歩くルートに「水戸」の冠が付いているのか? 歴史を調べて行くといろいろなものがひも解けてくる。江戸期の水戸藩の所領とは、現在の水戸市を含み県北、そして栃木・福島の一部も包含していたようなのだ。これを知った瞬間に氷解。巡礼地の描き出すシルエットがまさにこの藩領に一致しているのだ。観音霊場が『光圀公の発願』との逸話にも思わず頷き、常陸水戸三十三観音霊場とは水戸藩領をめぐる巡礼だったのである。
もうすこし調べた結果を記させていただくと、「水戸」なる語源は海や川などの出入口を「みと」または「みなと」と呼だところから始まるらしい。水戸には那珂川や千波湖などたくさんの水に関わる対象がある。吉田薬王院文書によれば西暦1400年ごろにはこの地名が現れていたと書かれている。肝心のこの観音霊場ですが、近年、霊場の衰退が激しく、すでに八か所が廃寺となっている。巡拝される方は念入りに事前の情報収集をすることをお勧めします。
今回の口絵の神崎寺は、常陸水戸三十三観音霊場の第一番札所。RC工法の本堂と木造建築の観音堂が並び立っています。今回の絵は観音堂側から本堂の横顔を観る構図で描いています。