<<参考情報>>reference
・天明期(1781-1789)開創と云われる
・笠間市を中心に一部城里町に。
・案内はほぼない
・多くが堂宇で構成される。
・笠間市中心街から東側にある玄勝院からスタート。続いて南に向かいながら右回りに一周することになる。中盤には笠間市西側、二十番代には笠間市北側に隣接する城里町へ。終盤は再び市内に戻り、三十三番鳳台院にて結願を迎えることになる。
<<ぷち情報>>petite info
佐伯ではなく佐白である。
あまりお目にかからない、誤植かと間違われそうな漢字である。「さしろ」と読む。
今回の観音霊場は多くが笠間市にある。江戸期の統治の様子を調べてみるとこの土地には笠間藩が存在している。水戸藩の西方に宍戸藩、そしてその隣に笠間藩が。もともと笠間氏が存在し鎌倉時代初期からこの土地を有していたらしいが、豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏に味方したために滅亡。その後この土地は、宇都宮氏、蒲生氏、松平氏、小笠原氏、幕府領、松平氏、永井氏、浅野氏、井上氏、本庄氏とさまざまに領主が変遷し、1747年以降は牧野氏が領主となり明治維新まで統治が続くことになる。この観音霊場の開創が1780年代とのことであることから、牧野氏の統治が安定し、庶民文化が盛り上がってきた頃の開創といえるかもしれない。
ではなぜ笠間三十三ではなかったのか?
この地には信仰の山として佐白山がある。縁起によれば、神の使いとされる白い雉、白い鹿、白い狐が住むことから「三白山」と呼ばれていたとか。また白雉2年(651年)に真言宗の「三白山三白寺」が山頂に建立されたとも言い伝えもあるらしい。憶測するに、滅亡した氏族の名称ではなく、神々に紐づいた高貴な名称を拝領のではないかと思われる。
今回の口絵の東性寺は、新佐白坂東三十三観音霊場の第三番札所。急な狭い坂道を登った先に境内がある。肝心の観音堂は、実は絵の左端にある。お堂はRC工法でちょっと味気なく、絵は本堂をメインに境内の様子をスケッチさせていただいています。